長嶋有『夕子ちゃんの近道』:癒しと経済の狭間で

夏休みギリギリに書く読書感想文じゃないけど、長嶋有『夕子ちゃんの近道』についてざっと書きとめておきたい。
7つの短編からなるこの連作は、大雑把に言えば、疲れちゃって何もする気のなくなった「下流志向」の語り手が働く(おそらく会社勤め)のを辞めて、ある小さなコミュニティに暖かく受け入れられて、そこで、互いに適度な距離を保ちながらも関心を持ち合う人間関係を経験し、癒される話である。

コミュニティとは、語り手が住み込みで店番のアルバイトを始めたアンティークショップ「フラココ屋」を中心とする人間関係だ。店主、店の大家、大家の孫娘姉妹(朝子さん&夕子ちゃん)、店に入り浸る瑞枝さん。あと、周辺的な人物として、向かいのバイクショップの店員、夕子の彼氏、店主の元カノのフランソワーズがいる。

以下、特徴的なことをメモる。

1.浮遊する現在
癒されたからといって、語り手が再びしゃっきりして働き始めるとか、目標に向かって活動し始めるといったような兆しは一切見られない。他のコミュニティのメンバーに関しては、なんとなく今後の変化が想像されるような動きが見られるのだが、主人公である語り手の未来のみは白紙である。

また、語り手が無気力になってしまった原因や、コミュニティへやってくる経緯も一切語られない。昔の彼女のことなど、過去を瞬間的に回想する場面もあるが、それは現在とは遠く隔たった過去であり、小説が描く時間は、それに連なるはずの過去とは完全に切断されている。

こうして、現在への意識のみが浮遊した状態で呈示される。「思考停止」あるいは「モラトリアム」などと、語り手自身が形容するのであるが、未来への投資や過去との比較といった捉え方から解放されて、「いま・ここ」への感性が息づく。また、社会的な価値よりも、身体的感覚に重きをおいた意識の分配がされるようになる。

2.成長・生産・効率の拒否
語り手は、コミュニティで関心を持ち合う人間関係に目覚めたようではあるが、ある程度癒されたら、コミュニティからこっそりと抜け出してしまい、その後、瑞枝さんから、大人のすることではない、といった批判を遠回しに受ける始末だ。主人公は癒されたが、かじかんでいた気持ちが緩み、和んだだけで、成長物語ではないのだ。

このことから、小説の描く時間は、主人公の人生のなかで、まともに働く人生の間に挿入された一時的なスランプとして位置づけられるのではなく、これこそが彼のこれからの日常であると受け止められる。

「そんなことしてどうするのって問いかけてくる世界から、はみ出したいんだよ」(「夕子ちゃんの近道」p.61)
語り手が、朝子さんの箱作り(美大の卒業制作)と妹の夕子ちゃんのコスプレを弁護して述べる言葉だが、そこには、語り手がやってきた生産性重視、効率性重視の世界への批判が込められているように思われる。

タイトルに使われた「夕子ちゃんの近道」も、近道というと効率性を求めているようだが、実はそうではなく、通学という労働を、スリルと楽しみに満ちたものにするための手段であることがわかる。途中で自転車を降りて柵を乗り越えて人家をすり抜けていくくらいなら、まともに自転車で駅まで行った方が早いのではないかと推察すれば、彼女の近道はむしろ非効率ですらあるかもしれない。

3.コミュニティの非生産性
コミュニティを経済面から見てみる。大家はすでに所有している不動産からの家賃収入で生活、孫娘たちは学生だから祖父に依存。フラココ屋はおそらく赤字(インターネット販売ではそれなりに収益を上げてはいるようだが)で、小説の終盤では店をたたむことを検討している話が出てくる。本店を実家の蔵にしているところから、おそらく親、あるいはそれ以上前の代の富の蓄積に依存することで、店主は営業を存続できていたのではないかと思われる。そして、ほとんど大した仕事のない語り手は、そのおこぼれに与る存在だ。そして、瑞枝さんはイラストレーター蒹ライターで、口振りから日々の暮らしと収入をバランスさせているような状態と想像される。

つまり、このコミュニティはだいたいが過去の富の蓄積に依存することで存続できている。そうした下部構造が、メンバーたちがまったりと生きる(学生たちは経済とは別の理由でそれぞれに生きづらさを抱えているが)日常を支えているのだ。

そんな日常が、癒しの場として一種のユートピア的に描かれているところが実に現在的である。ただし、決して無時間的な世界が幻想されているわけではない。語り手以外は動いていて、このコミュニティがいつまでも維持されることは期待されない。そこに、この小説の複雑な味わいが生まれていると思った。

4.コミュニティ内の距離感
高校生の夕子ちゃんは妊娠して結婚、朝子さんは別居していたドイツの父のところへ移住、瑞枝さんはイラストレーターとして本腰を入れるために引っ越して、別居中の夫と正式に離婚もする、と言った具合にさまざまな出来事が起こるし、そうした事件は登場人物たちを苦悩させるのだが、登場人物たちはほとんど内面を吐露しないし、語り手も隠されていることを推理したりしない。

こうした互いの内情や内面に踏み込まない関係は、コミュニティのメンバーが、語り手が参入してから半年も経過しているのに、語り手のフルネームを知らなかったというエピソード(「僕の顔」)によって鮮やかに印象づけられる。このコミュニティにおける正しい距離の取り方がそういうものなのだ。例えば、瑞枝さんの次の言葉にそうした感覚が表明されていると思う。

「嫌っていうのは……そういう嫌じゃなくて。病気で弱っている人をみると、可哀相だし、仲のいい人なら心配だけど、でもそれがどんな親友でも、少しだけうっとうしいじゃない」そして本当は、少しじゃなくて、すごくうっとうしいの。お見舞いにいくときなんか、他人の前では不謹慎になるからいわないけど、でも、うっとうしいの。(「幹夫さんの前カノ」p.96)

5.読者もコミュニティの一員
語り手は自らの過去や思考過程を語らないし、コミュニティのメンバーに生じるような前述のような出来事についてもほとんど説明されない。したがって、読者が語り手を含むコミュニティ全員に対して持つ情報量は、コミュニティのメンバー同士が相手に対して持つ情報量と同じくらい少ない。

この点もこの小説の大きな特徴で、読者は語り手を通してコミュニティの世界を覗くのであり、そのため必然的に語り手の身体を借りるほどの密着的な距離を持つのだが、一方では、コミュニティが距離を取りつつ彼を見守るような距離間を、語り手に対して感じざるを得ないようにできている。つまり、読者も、他者への関心という次元では、コミュニティの一員として語り手を含む登場人物たちと同じ地平に立たされるのである。

この小説を読む楽しみの大きな部分は、コミュニティの日常を楽しむところにあると思うのだが、それを楽しむ読者の立ち位置として、この仕掛けが大いに貢献している。全能の神でもなければ、主人公と同一化してもいないし、単なる傍観者とも微妙に違う。

反対にこの仕掛けを楽しめないと、「All About」の評者のような拒否反応が出てしまうのだろう(しかし、酷いなこの評者は)。

6.顕在化する身体感覚
では、「コミュニティの日常を楽しむ」とは?
ドラマを形成するはずの前述のようなさまざまな事件からは距離を取る代わりに、小説の記述では、日常の忘れられていた身体が顕在化している。生活のための労働(ホースで水を汲む、ガラス拭き、・・・)がもたらす身体的な快楽。意味よりも音声を優遇する言葉遊び(化粧品の名詞をSFアニメ?の名詞になぞらえる遊び、インシタンスコースー・・・)、唐突に想起される身体の記憶(学食の思い出、・・・)、身体の場に対する反応(フランソワーズのアパルトマンからの眺め)などなどだ。


 さっき夕子ちゃんがのぞき込んでいた窓から、中庭を見下ろした。
 見下ろすのは二度目なのに、もう見慣れているのが、なんだか不思議だった。(「パリの全員」p.229)

これは小説の一番最後のところ。語り手がフラココ屋に越してきた時、二階からの眺めに見慣れるのには、もう少し時間が掛かったのではないか。フランソワーズのアパルトマンからの眺めにすぐに慣れたのは、コミュニティのメンバーが作り出す空気が、語り手にそこを自分たちの場所であると感じさせたからだろう。こうした身体に生じる微細な感覚に対する感受性を生き生きとさせることが、この小説の読書の楽しみであり、同時に、語り手の癒しになっている。

0.癒しと経済の狭間で
語り手は「下流志向」を選択し、生産性・効率性と別れを告げることで、優しいコミュニティのなかで、生き生きとした身体への感受性を回復した。しかし、それは、過去の遺産に依存することで可能になっている生活である。すでに見たようにコミュニティの経済自体がはなはだ心許ないものだ。

語り手については、実はコミュニティから離脱しても、帰る家もあれば、それなりの貯金も持っているという設定だが、それがいつまで語り手にニート状態を許す資産であるかは不明だ。ある誤解から、コミュニティのメンバーは、語り手が実は大金持ちの坊ちゃんだったという想像をするシーンがある。もしそうであれば、語り手は死ぬまでこの日常を続けることが可能だろう(少なくとも経済的には)。実情が明らかにされないから、この可能性が完全には否定されたとは言い難い。けれども、これは現実の限界を暗に示すために書かれた空想なのだという印象が強い。

それなら、どうやって、暮らしを維持する経済活動と、こうしたコミュニティの持続や身体への感受性の確保とを両立させるのか--その答えがほしいところだ。けれども、「答え」は最後の短編「パリの全員」でも見えそうで見えない。

瑞枝さんはこっちで友だちに会う予定があるらしい。店長はのみの市。僕はそれに付き添い、夕子ちゃん夫婦は新婚旅行らしく観光をし、あさってからはドイツに暮らす父親と姉を訪問する。皆、目的はばらばらだ。いつもなにかが我々をゆるく束ねている。日本では店が。フランスでは、不在のフランソワーズが提供してくれる家が。(「パリの全員」p.222)

店とか家とか、地理的な場所が与えられなければダメなのだろうか。そんなことはないような気がする。そして、やはり語り手も、何か始めなくてはいけないだろう。人間関係においても経済的にも恵まれている語り手にとって、「答え」を見つけるのはそんなに難しいことではないように思える。

しかし、そうした「答え」を書いてしまうと、この小説全体の持つ雰囲気が壊れてしまうことも確かだ。解決はこの小説には似合わないのだ。それはこの小説の外側で読者が考えることだ。

実は、この小説の重要な読書体験のひとつは、本を閉じた瞬間に得られるのかもしれない。自身もコミュニティの一員として癒された読者は、本を閉じた時に、一足だけ先にコミュニティから離脱する感覚を覚えるのだ。

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小指値『Mrs Mr Japanese』

もう一月ほど前のことになってしまったが、小指値という劇団の公演を初めて観た。王子小劇場での『Mrs Mr Japanese』だ。自分にとって、いい意味で気になる劇団となった。

印象を一言で言うと、別に全てのシーンで笑わせようとしているわけではないんだが、なんかコントのオムニバスを観ているような舞台だった。会話や独白で進行するシーンでも身体がドラマからかなり距離を取っていているところや、シーンのつなぎが唐突なところなどがコントっぽさを醸す要因だろう。台詞と身体の関係については、チェルフィッチュに似てなくもないが、チェルフィッチュの「管理されただらしなさ」とは違って、本当にだら~んと弛緩しているところが、小指値の特徴とも言えそうだ。ダンスシーンもあったりして、実にゆるゆるな感じで身体を動かす。そんな空気の中で、こーじ(山崎皓司)が舌でタバコの火を消すなどの電撃ネットワーク的な小技を見せたり、小柄なきぬちゃん(野上絹代)とかがポワントでなんとか相手を見下ろそうとしたりして、ますます観客をコントの持つ刹那を楽しむ感覚へと誘う。シーンの再現にも様式化にも興味がない。別に芝居じゃなくてもいいんだけれど、身体から滲み出る虚無感のようなものを表現したいんだ、とでもいう感じ。今後、こういうスタンスがどう強度を獲得していくのかが、楽しみだ。

ただし、ドラマ的要素がステレオタイプな点は課題だろう。高校を卒業してみたものの鬱屈した日々しか待っていなかった同級生たち・・・派遣の悲哀や主婦になって家に籠もる女性の孤独とか、そういう話の描き方が表面的で学芸会の台本みたいになっている。リアリズムはいらないけれど、観察力が欲しい。あと、最後に「未来から来たS」(篠田千明)がきぬちゃんのメンタリティを罵倒しまくって終わるというのも、面白くない。きぬちゃんを批判する必要もないし、怒りを爆発させるなら、その役目に外部的なポジションに立つ「未来から来たS」は相応しくない。自らが「これが今の若いJapaneseだぞ!」と力む主体となってしまうと、表象しようとしているその実態と矛盾してしまうのだ。

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夏の雑感(長嶋有・岡田利規)

東京はうだるような暑さが続く。
今朝、NHK総合『おはよう日本』では、夏を北軽井沢の別荘で涼しげに過ごす長嶋有が取り上げられていた。羨ましい。純文学系の本って数万部も売れたらすごい方だと思うし、年にせいぜい2、3冊のペースだろうし、それで作家の人ってなんでこんな優雅な生活ができるのかしら、と思いつつ、ちょうど先週『夕子ちゃんの近道』を読んだところだったので、小説が持っている空気と著者の醸す雰囲気の親和性を確認する。

「人間は皆同じような体をしているけれど、心に関しては、形や必要な栄養もそれぞれ全然違う別の生物」みたいなことを言う。確かにこの人は毎日あくせく働いている人々とは違う栄養で生きているという感じはする。幅を利かせる価値観の隣で、愚鈍と言われてもビクともしない。芸術家はこうであってほしい。

そういえば、と言いつつ話が変わるが、『新潮』2007年8月号に岡田利規が「初のヨーロッパツアーを終えて」を書いていた。浮かれることなく「日本でのアクチュアリティを失うようなことをしたり、失ったと見なされてしまったりするような、格好悪いことにならないように気をつけたい」。岸田賞を受賞した時も、なんか同じようなトーンの自戒の言葉を述べていたような気がする。大変立派な心がけだが、そんなことをいちいち表明するところが先生に褒められたい学生みたいで格好悪い。

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神村恵カンパニー公演『山脈』のアフタートーク

アフタートーク(こまばアゴラ劇場、2月3日)で、舞踊評論家の武藤大祐さんが神村さんの相手を務めた。このトークのお陰で出演した5人のダンサーのうち誰が神村さんなのか判ったし、これまで数年間(5,6年?もっとか?)、Webに書かれた文章を折に触れて読んできた武藤さんがどんな人なのかも初めて知った。そんなわけで私は対談の両者に興味が湧いていたのだが、このトークでは公演者よりも評論家の方が中心に喋ったので、後者のお話が印象に残った。面白かった点を2つメモ:

1.「太った舞踊評論家」宣言?
冒頭で、武藤さんは自分がとても太っていて、そのために自分の呼吸が荒くて睡眠の際に気になってしまうほどだと、インパクトのある告白をする。そうしたことから、「世界の中で自分の体が出っ張っている感覚。過剰な感じ」を自分の身体に対してもっていると言う。私はダンス公演を観るとき、そのときの身体的コンディションの影響が無視できないことを常々感じていた。そういう話はよく公演を観る知り合いとの間でも出るし、誰かが同等の主旨を書いているのをどこかで読んだこともある。「疲れていると集中できない」という問題以上に、観客の身体はダンスを観るときに無視できないファクターになっているのではないかと思う。集中できないのは困ったことだが、観客の個々の身体の状態や記憶などによって公演の体験が変わってくることは、むしろダンスという芸術の可能性に関わる重要なテーマである。おそらく、武藤さんはそうした問題意識を踏まえて、自分が「太った舞踊評論家」であることを最初にアピールしたのではないか。彼は自らを「体フェチ」と呼んだりしていて、実際、彼の文章からは私には認知できないようなダンサーの身体の違いに対する繊細な感性をもっていることがうかがえるのだが、そのことと彼が太っていることは関係があるのでは?と冒頭の語りを聞いてハッとさせられた。よく、ダンスを理解するためには自らも踊ってみないと判らないと言われたりする。バレエの技術を語る前に、教室に入門してみろという説がある。そのようにダンサーの身体に自らの身体を近づけていくことも一つの道だが、批評者のポジションはそればかりが正解ではなかろう。真逆もアリだ。私は自分が知っている十名くらいの舞踊評論家の身体を思い浮かべてみたが太っている人は一人しか思い浮かばなかった(太った演劇評論家なら何人も浮かぶのに!)。これまで考えてもみなかったが、現在、舞踊批評の言説が痩せた人たちによって独占されているとしたら、「太った舞踊評論家」というポジションは案外、重要かもしれない。「過剰な感じ」から生まれる繊細な感性が批評の言説を豊かにするだろうし、痩せた身体による鑑賞体験のみが特権化されてはならないからだ。

2.日常における行動と環境変化
トーク中盤では、「日常におけるささやかな身体的快感が大事で、そうしたことが生活に潤いを与える」と主張していた。自動ドアに向かって歩いていき、ちょうどドアの前まで来たときにタイミング良く開いて、止まらずに通過できたときの快感。あるいは、信号のある横断歩道で同じようにタイミング良く信号が変わって、立ち止まることなく横断できたとき、といった例が挙げられた。どちらも「行動と環境変化の同期」ということかと思うが、こういうものがダンス的なのだ、と彼は言う。私は「●●ってダンス(的)」という物言いが嫌いなのだが、この指摘は面白いと思った。自動ドアの例も信号の例も、どちらも誰もが日常的に経験していることで、あちこちでネタにされたりもしている(彼は『R25』誌で読んだと言う。私はTVでダウンタウンが「気持ちの良いこと」として実演するのを見たことがある)が、それをダンスと結びつけて語った例は知らない。まさに「太った舞踊評論家」の面目躍如(と勝手に思った)。踊っているダンサーにとって、環境(=空間)に意識を配ることは非常に重要である。自らが動くことで刻々と変わっていく空間を絶えず意識しながら踊っている。ダンサーの空間への意識が、観客にダンサーの小さな身体がその何十倍もある舞台空間を支配しているかのように感じさせることを可能にするし、空間の変容を体験させる力も持っている。ダンス鑑賞の快楽の一つに、そうした空間に対するイリュージョンの体験があるのはまず間違いないだろう。などといったことを考えれば、自分の運動によって環境が変化した(ドアが開くことはまさに空間の変化だ)かのように因果関係を錯覚する体験は、踊っているダンサーの体験に近いし、自らは踊らない観客がダンス鑑賞から快楽を引き出す際の一つの参照項となる体験になりそうだ。

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チェルフィッチュ《エンジョイ》--予防回収的態度のこと

新国立劇場小劇場で公演中のチェルフィッチュ《エンジョイ》を見た。とても面白かったので久々にメモする。(メモだから、以下、まだ見ていない人への配慮はしないのでご承知おきのほどを。)

チェルフィッチュの舞台で以前から気になっていたことだが、「だったら、○○○しろよってことかと思うんですけれど・・・」「いや、○○○ってことは全然オッケーなんですけれど・・・」といった、相手のツッコミを先回りして回収するような言葉が異常なほどに多い(仮にこれを予防回収的態度と呼ぼう)。

何故なのだろうか? 自分はこんな喋り方をしないし、自分の周りにもこれほど過剰に回収しようとする人は見あたらない。よく知らないが、若者たち(20代)の間の会話はわりとこういう感じなんだろうか? 

ここで、チェルフィッチュの舞台--というより『エンジョイ』に限定していうべきだろうが--に登場するのは普通の会話ではない、ということは注意しておかなければならない。大まかに分けて、(a)観客に向かって登場人物の心境を説明する台詞と、(b)登場人物間の会話の台詞がある。量的には(a)が多いように思う。(b)かなと思って聞いていると、実は(a)だったと台詞の最後の方になってわかることもある。そして、予防回収的態度が多発するのは(a)全般、および(b)では緊迫した議論になるときだ。『ポスト*労苦の終わり』ではすれちがう夫婦間の会話がそうだった。

『ポスト*労苦の終わり』を見たとき、こんな会話になってしまうのは、「夫婦とはかくあるもの」とか「家族とはこういうもの」といった価値観の共通基盤が失われているからだと思った。だから、自分の言い分を相手に説明しようとすると、原理的なことから説いて行かざるを得ず、かといって、原理的なことまで突きつめて考えたことがないから、理路整然と説明などできない。仕方なく、相手の言葉に依存して、つっこみに反論する形で議論を形成しようする。

そういう状況では自分自身に正当性の基盤がないから、よるべなくなってしまうので、不必要な身振りがやたらに多くなる。チェルフィッチュ流のだらだらした役者の身体に、私はむしろ身の置き所のなさのようなものを見る。

予防回収的態度の暴走版は、『目的地』に登場した、想像上の人物--子供を作ることを批判する攻撃的な男--の出現だろう。あれは、特定の誰かのツッコミではなく、『エンジョイ』のミズノ君が感じてしまっているような世の中の声である。予防回収的態度の暴走は自己を身動きできなくさせてしまう。チェルフィッチュの舞台は予防回収的態度の蔓延により閉塞感が強かった。

しかし、今回、そんな予防回収的態度に対して、「本当にそんなこと言われたの? そういう風に勝手に思いこんでいるだけなんじゃないの?」と反論するマエノさんが登場した。これは結構な進展だ。今回の作品が明るい印象で負われるのも、マエノさんのこの発言に集約されるような突破口があったからだ。

それは良いことだ。フリーターに対して卑屈になるな、楽しめというメッセージも良い。でも、シミズ君たちがカップルでいることの幸せに浸っていればいいかというとそうでもない。このままずっとマンガ喫茶やカラオケボックスでバイトしていたら、親から独立して子育てをしたり、病気や怪我といった危機を乗り越えていくのは難しい。そんなことは誰でもわかっていることで、だからこの芝居の妙に明るい終わり方は、観客に割り切れないものを残すのだ。

シミズ君が何歳かははっきりしないが、彼が「ミカカ」と呼んで馬鹿にしている30歳トリオとほんの数歳しか違わない。彼が30歳トリオを年齢を理由に馬鹿にする考え方を持っている以上、彼が30歳になったときに、カワカミ君みたいにひとりビデオカメラに向かって遺書めいたモノローグをしてしまう危険性はある。結局、シミズ君だって、”世の中の声”を聞いてしまっていることに関してはミズノ君とたいして変わらない。

シミズ君は新入りのバイトが同世代だと思ったから、仲良くなろうと声を掛けたりしたが、たまたま履歴書を目にして、新入りが32歳とわかり、とたんに仲良くなりたいという意志が失せたというエピソードが紹介される。

なぜ、同じ年齢同士でつるむことしかできないのか。きっと、バックグラウンドが極めて近くないと、コミュニケーションするのが面倒くさいのだろう。相手が読めないと、予防回収的態度を取ることすらできないから、ダルいのだ。そして、ミズノ君やカワカミ君がこれまで自分を客観視しないでいられたのも、似たような境遇の仲間と連んでばかりいるからだ。境遇の異なる他者への回路を遮断しているからこそ、予防回収的態度を発達させることでそれを補おうとしているのかもしれない。

第2幕でだったか、映像でフランスの初回雇用契約(CPE)に対する若者たちのデモが紹介された。CPEが強い抗議行動に発展した背景には、それ以前から失業した移民系若者の怒りがくすぶっていたことがあると言われている。雇用調整する権力が自分たちにまで及んできたから、非移民系若者も移民系若者の抗議行動に合流したということだろう。フランスには差別と連帯とがある。日本のフリーター間の分断は、もっと隠微で深刻な状況と受け止めるべきだろう。

分断は、なぜチェルフィッチュの舞台では役者が時にマイクを手に語るのか、という問題にも関連してきそうだ。(a)の台詞の中でも、彼らがマイクを手に聴衆に語る時、あんなによるべない身体の持ち主である彼らの口調は、なぜか実に自信に満ちたものになる。例えば「ミズノ君問題評論家」とか、そんな肩書きでももった人がパブリックな場で聴衆に向かって解説しているかのような態度だ。実際、彼らは彼らの語る出来事に関してありえないほどに詳しいわけだが、彼らの語っていることは全くパブリックな関心事ではない。そのギャップが観客の笑いを誘う。と同時に、ここでは公/私の区別がなんか奇妙なねじれの中で曖昧になっていると感じる。

「これから○○○っていう話をやります」という冒頭の台詞に象徴されるように、チェルフィッチュの舞台では第4の壁が取り払われていると言われているが、厳密にはそうではない。観客ははっきりと役者にも届くような声で笑ったりするのだが、役者はそうした反応には気づいていないかのように振る舞う。役者は物語の外に立ち、観客に向かって語るが、観客の存在を無視している。あるいは応答しない。このねじれた関係によって、私たち観客は無言の聴衆の役割を担わされている。そのため、時に自分たちが、ミズノ君が聞いてしまう”世の中の声”を語る主体であるかのような気分にさせられてしまうのだ。

この居心地の悪さ、そして、先に述べた最後に残る割り切れなさの感覚・・・『エンジョイ』は実に意地の悪い仕掛けを隠し持つ演劇なのだ。

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