ニュータウンと土地の伝説(『求塚』/『シンセミア』)
今更だが、7月に三軒茶屋のシアタートラムで上演された鐘下辰男作[ 現代能楽集II 求塚 ] について書く。この芝居の大筋は、ニュータウンで児童の首が切り落とされるという猟奇殺人事件が発生。原因は、不倫がらみの嫉妬と復讐の結果である--そんなありふれたワイドショー的な事件の解読を、ジャーナリストが聞き込み調査で覆していくプロセスである。調査が進み、当事者たちの出自が明らかになっていくと、事件は、その土地の伝説に基づく生け贄の儀式の復活という様相を帯びていく。そして最後に、出演者一同によって神楽が舞われて芝居は締めくくられる。まるで、「龍神の森」という聖域を破壊し、鬼を鎮魂する祭りを忘却したことが過ちの本質であり、その過ちをいま取り返そうとする身振りのように見えた。だが、本当にそんなことが過ちの本質なのか?
能楽の想像力をいかに現代劇に生すかという難問に対して、鐘下が提出した回答--舞台の使い方、役者の使い方--はとても面白いし、よく考えられていると思ったけれど、それはともかくとして、この芝居の構造が気にくわなかった。
私は、物心ついたときから団地で生活してきた人間なので、団地の暮らしがもつ閉塞性とニュータウンでの暮らしの閉塞性を重ねることで、鐘下が取り上げた問題系は実感できていると思う。世間という網の目から一時的に外れることが出来る場所、非人間的なもの・超越的なものに触れて、自分を精神的に解放できる場所--そういった余白・余地を、団地やニュータウンは生活圏の中から欠落させてしまっているのだ。子ども時代に、団地の中の人目に付きにくいちょっとした場所を探しては、そこを何か特別な場所、秘密の場所と見なしたした記憶がある。そういう時は、その場所が別世界へ通じているなどの特別な力を秘めていることを夢想したものだが、あれは、無意識に自分の「龍神の森」をねつ造する遊びだったのだと思う。
鐘下はそうした問題系を、登場人物のジャーナリストに、赤坂憲雄の『排除の現象学』を引用させたりして説明するのだが、論文を芝居の中に長々と引用したりするのは、なんだか安易なアリバイ工作みたいで、好感がもてなかった。ネタを芝居に生のまま持ち込むのでは芸がなさ過ぎる。赤坂がロジックで書いたことをそのまま読む代わりに、演劇を通して観客にそれを実感させてくれよ、と思う。
話題が逸れた。私がこの芝居で違和感を覚えるのは、ワイドショー的話題として提示された猟奇事件--風変わりではあるが、時々話題になるたぐいの事件の一つという位置づけ--の根本に土地の伝説を置くという態度である。最後の神楽の身振りは、そうした態度を示しているのだと思う。しかし、そんなオカルト趣味はアホらしくて受け容れられない。
仮に、事件の根本が問題なのではなく、ニュータウン造成によって人々が抱え込むことになった心の闇がここでは指摘されているのだと考えても、やはり納得できない。確かにニュータウン造成は、その土地で継承されていた民俗信仰と密接につながる土地の構造を破壊した。しかしだからといって、昔の民俗信仰を取り戻すべきだとは思えない。いまさら無理だし、それが正しい対処方法だとはどうしても思えない。だいたい、「土地の言い伝え」なるものに、私たちの暮らしを宿命付けるどの程度の正統性があるというのか・・・。
今になってこんなことをブログに書く気になったのは、夏休みに阿部和重の小説『シンセミア』を読んだからだ。この小説は、阿部の故郷である実在する場所・山形県東根市神町を舞台とする2000年の7月から8月に掛けての架空の物語なのだが、この小説においては、現在の猟奇的事件と民俗学的想像力に基づく土地の歴史とが、鐘下の演劇とはちょうど正反対のベクトルで結ばれていく。鐘下の演劇が猟奇的事件を掘り起こしていき、「土地の言い伝え」に辿り着くのに対して、阿部の小説では、アメリカ軍駐留に始まる町の精神的荒廃を起点に、延々と穀潰したちの腹のさぐり合いや脅し合い--彼の小説ではお馴染みの卑猥で妄想に満ちた男たちの抗争が繰り広げられる。その結果として、終盤に10人もの死体が積まれる事件が同時多発するのだが、それが祟りでもなんでもないことは読者は内部事情を知らされているため判っている。ところが、町民たちは内部事情を知らないため、終盤の事件の前から起こるさまざまな予兆的事件を、オカルト的に処理しようとする。阿部はそうした町民の心理が、町のゴロツキである老いた新聞配達人に誘導されて生じたことまで書いているのだ。そして、土地の伝説に基づく神様も宇宙人との交信といったエセSFも一緒くたに扱われているところに、たとえばオウム真理教みたいな宗教もどきが一定の民心を集めてしまう現状を揶揄していると見ていいだろう。
私にはこっちの方が遙かにリアルに感じられる。小説の描く神町の闇の戦後史--アメリカという外部権力に便宜を図ることで、ヤクザ、自治体と癒着した建設業者、不動産業、そして日本政府がアメリカ指導の下に行ったパン食普及政策という日米関係の徴を刻印された「パン屋」が闇社会を形成して、町を影から支配する--が、日本の戦後史を揶揄するミニチュアであることは明らかだろう。そして、2000年になって、町民たちが民俗信仰に目覚めたり、オカルトに走ったりする影に、第二次大戦の体験で少し現実認識がおかしくなったゴロツキがいるという設定には、現在の閉塞状況を「古き良き日本」を持ち出すことで乗り越えようとするベクトルに対する批判が込められているように思う。そんなベクトルの根っこにあるのは、高度経済成長で忘れられた「古き良き日本」などではなく、敗戦のトラウマなのだ、と阿部は言っているようだ。
素晴らしい存在感を見せた千葉哲也らの好演にもかかわらず、[ 求塚 ] が一本調子の単調さを免れなかった一つの理由は、プロセスを進行させるジャーナリスト瀬川(今井朋彦)が何者であるかが定位していなかったことにあると思う。ニュータウンに対して超越的な地位を確保した真理の追求者?・・・そんな人物は演劇上の必要でしかあり得ず、芝居をつまらなくするだけだ。彼に『シンセミア』の新聞配達人・星谷影生くらいの造形があれば、芝居はもっと立体的になり得たはずだ。もっともそうなると、能楽「求塚」の構造からますますズレていってしまうだろうが。
ついでながら、鐘下の[ 求塚 ] と阿部の『シンセミア』にはほかにも類似点がある。顕著なのは、町の権力者の二代目たちが、町のあちこちにビデオカメラを仕掛けて、盗撮をして楽しむグループを作るという設定である。「人目があるから」というセリフが印象的に何度も発せられる鐘下の芝居で、盗撮用のカメラが世間という陰湿な権力の比喩であることは、阿部がそれを「監視網」と呼んだのと同様だろう。あと、細かなところでは、それぞれの物語の中心となる家([ 求塚 ] は楠木家、『シンセミア』は田宮家)には相田みつをの日めくりが掛けられているところが共通している。鐘下も阿部も共に、相田みつをを揶揄の対象として導入しているのであり、それが楠木家や田宮家の精神的危機を暗示する小道具になっている。
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