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”三浦語”のための舞台(地点『じゃぐちをひねればみずはでる』)

三浦基の分節やイントネーション、テンポ、発音を操作してセリフに強いディストーションを掛けるやり方(一部で”三浦語”と呼ばれているらしい)に出会ったのは、03年11月にアトリエ春風舎で上演された 『三人姉妹』 (地点第5回公演)を見た時だった。それは観客にセリフのリテラルな意味から距離をとらせ、発語する行為に注目させた。それ自体は新しいことではないが、役者の身体の扱いやスピード感と相まって、突風が観客の身体を吹き抜けていくような、そんな新鮮なチェーホフ体験させてくれた。演出は単に奇抜さを狙ったようなものではなく、台詞の意味は犠牲にしつつも、『三人姉妹』の解釈の上に構築されていた感じた。

次は04年1月にこまばアゴラ劇場で上演された、ノルウェーの作家ヨン・フォッセの作品 『眠れ よい子よ』『ある夏の一日』 (第6回公演Bプロ)。ここでは”三浦語”はぐっと控えめになった。俳優3人が客席の前にスタンダップコメディアンのように並んで立って行う短編『眠れ よい子よ』はともかく、『ある夏の一日』の方は、「シャツ」を「シヤツ」と発音するとか、そんな細かな使い方が多かった。こういう小技は邪魔である。ところどころの”三浦語”が気になって、他へ振り向けるべき注意が奪われてしまう。”三浦語”の必然性が見いだせないならこだわるべきではなかろう。彼はこれをトレードマークにしたいのかと訝った。一緒に公演を見た人は「孤独な人の退屈な気分が表現されている」と好意的に受け止めていたけれど。

そして今回の公演、詩人・飯田茂実のさまざまなテキストを素材に三浦が自由に構成した 『じゃぐちをひねればみずはでる』 (第7回公演。こまばアゴラ劇場、9月18日のマチネを見た)である。なぜ今回、こうした台本が選択されたのか。私は、三浦が”三浦語”こそ自分のアイデンティティと考えて、それを最大限に生かす素材を選ぼうとしたように思えてならない。そして、その目論見はかなり成功していたと思う--その点で楽しめる舞台だった。でも、これではほとんど”三浦語”のための”三浦語”ではないか。注目される若き演出家にしては、自ら取り組む仕事の選び方に野望がなさ過ぎると思った。

”三浦語”はそれ単独では単なる演出の一技術でしかない。役者の身体をどう扱うか、という問題と一緒に取り組んでこそ、”三浦語”は探求するに足る演出法を形成する、その一要素となりうるだろう。『三人姉妹』では、三人姉妹が終盤までほとんど動かないという選択と人形のようなぎこちない動きが演出上の必然を感じさせた。しかし、今度の作品では、役者の身体の扱いを演出家が持て余しているかのように見えた。見ていて、「なんでこんな動きしか思いつかないのか?」というもどかしさが募る。物を散乱させる、かき集める。バケツを両手に持って椅子の上に立つ・・・どうにもこうにも凡庸でしかない。

多くのシーンで中心を担うべき存在だった思える安部聡子がいつもの安部聡子のままなのは、彼女の俳優としての資質の問題もあるだろうが、演出家の責任も大きいだろう。彼女の担う役は、分別くささをこれっぽちも臭わせてはいけないのだと思う。一方、内田淳子はテキストを大量にまき散らす(カラオケまで歌う)説明的役回りを担うことが多い。それはそれですっきりした整理の仕方だが、三人しかいない舞台で一人がこれでは物足りない。彼女には一個の謎になって欲しかった。一番不満だったのは飯田茂実の使い方で、ほとんど舞台装置と化しているシーンも少なくなかったが、こういうものを見てしまうと、『三人姉妹』の演出も、演出上の必然性ではなく、単に役者を扱い切れないが故の選択だったのでは?という疑惑も湧いてくる。

しかし、半眼状態になって主に耳で舞台を見ることにしたら、私にはかなり面白かった。中学生時代、日曜日の夜はいつもベッドでNHK-FMで「現代の音楽」を聞いていたのだけれど、今度の公演を聴いて、20数年も前のことなのに、ジョージ・クラム『死の歌、ドローンと繰り返し』 "Songs, Drones, and Refrains of Death"(1968)を耳にした時の興奮を突然思い出した。テキストとなったロルカの詩は全然分からなかったけれど、それが死についての歌であるという情報だけで十分だった。子ども部屋の暗闇の中でヘッドホンから聞こえてくるバリトンのボイスパフォーマンスや楔を打ち込むようなパーカッションの響きに、存在の不安をひりひりと感じていた。蛇口を捻れば、水は出る--今では当たり前にし思えないそんなことが、まだ謎めいて感じられた年頃の、世界を見る眼差し(給水システムの仕組みがわからなかったということではなく、事物がそうなっていることの不思議さへの感受性の問題)。

世界を前にした子どもの問い--「だうしてだうして、なんでかな」というリフレインは、執拗にリフレインされることでリテラルな意味を一回ほとんど失う。けれども、無意味なフレーズとして観客の身体に染み込んでのち、後半になって内田淳子が編み物をしながらつぶやくのを聴く時、観客は自分がかつてその問いを発した子どもになったように感じる。この作品で”三浦語”が成果を上げる瞬間だ。

先日、いつもWeb上のいろいろ有益な情報を教えてくれる手塚さんから、この公演について舞踊評論家たちの意見が大きく分かれていることを教わった。「読んだ方がいいですよ」と言われて閲覧してみると、絶賛しているのは武藤大祐氏、やや誉めなのが桜井圭介氏、酷評しているのは門行人氏。この際、識者の多様な意見を比較して参考にさせてもらいたいところだが、これがなかなか難しい。「完全に人真似」と言われても、それは表面的な類似ではないか、という思いを抑えることが出来ないし、やはり山ほど評論家がいようと、自分自身で判断して見ていくしかないと思った。三浦が「三浦語の人」を越えることに期待して、今後もしばらく見ていきたい。

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自分の記録に夢中なる人々

9月22日付け朝日新聞の文化面に掲載された記事「僕の人生、まるごとパック」は大変興味深い。

日々、自分が見たもの、聞いたものを全部記録する--。デジタル技術の発達で、そんなことが可能になった現在、「思い出」を、いつでもだれにでも見られる形で保存する人々が続々と生まれている。あふれる情報の中、本当に欲しいのは自分自身の記録ということか。

スキャナーを駆使して自分の思い出のアーカイブを作って、それをBGVのようにして日々眺めている人がいるそうだ。また、体験伝達メディア「Life Slice」というものが紹介されていて、これは1分~60分間隔で自動的にシャッターを切っていく専用小型カメラを首から提げて生活することで自分の一日を記録するというアイデア。

野村仁の《Ten-Year Photobook 又は 視覚のブラウン運動》がすぐさま思い浮かぶ。水戸芸の個展(2000)であれの展示は壮観だった。ベタ焼きをそのまま束ねて製本にしたアルバムが100冊以上ずらりと並んでいて圧倒された。なるほど、コンセプトとして面白い。

しかし、みんながこんなことをやり始めても、実際には、膨大なつまらない写真の山が築かれるだけである。記録するのはいいが、それを見るのにも時間は費やされる。よっぽど優れた検索手法がなければ使えない。google並みのものが出来たとしても、今のWebブラウジングがそうであるように、利便性と時間の浪費はセットでやってくるだろう。人生の無駄遣い。

それに、忘れてしまったことは、多くの場合、忘れてしまって幸いなのだと思う。それをこんな風に記録していると、「その気になれば、はっきりできる」という状況が生まれ、非常にやっかいな選択を迫られるハメになるだろう。延命技術が進んで喜ばしい反面、いつ死を受け容れるか(親族が)自分の責任で決断しなくてはならなくなった事態も生まれたように、忘却とは「あえて思い出さない」ことと同義になり、いちいち意志的に態度を決定しなくてはならなくなる。(「あえて思い出さない」ことが得意な政治家連中には記録を義務づけたくもなるが)

それはさておき、Life Sliceでやっていることって、ほとんど盗撮同然ではないか。撮った写真をWebで公開する仕組みも用意されている。「Life Slice」のサイトには提唱者を含め何人かが実際に公開していて、その中には朝の通学(通勤)電車の中での写真もあって、吊革につかまって立つ人々の身体や、席に座って眠りこけている人の顔などが写っている。映された本人がこれを発見したらショックだろうな。おそらく犯罪として認められるのではないか。こんなものをぶら下げて写真を撮りまくっている連中が街にうろうろするようになったら恐ろしいことだ。関心が自分に集中するあまり、他者への配慮がますます失われていっているのではないか。

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ステファンとカミーユ(『愛を弾く女』)

un coeur en hiver [ 愛を弾く女 ] (1992) という映画を見た。エマニュエル・ベアールが出るクロード・ソーテ監督のフランス映画だ。2人の全く異質な男女が出会い、互いの美徳に魅せられながらも、違いすぎてうまくいかない。一言で言えば、この映画はそういう話だろう。主人公の男性がもっている傾向が、自分に似ている面があったので、とても興味深かった。

”外科医”の異名をもつ楽器製作者のステファン(ダニエル・オートゥイユ)は、工房に自分の世界をもっている。その世界に籠もって自分の技量を発揮する時間が彼の幸せだ。自分が一つの卓越した技術をもっていて、その技術によって社会が自分の価値を認め、それで生計が立てられるなら、その他の諸々のことにわずらわされるのを好まない。だからずっと独身を通して、恋人も持たない。彼を暖かく見守る父親のような老師ラショーム(モーリス・ガレル)と、異性であることを意識せずになんでも話せる兄弟のようなエレーヌ(エリザベート・ブリジーヌ)。この2人との交流があれば十分だと思っているから、ホームパーティーの席でも愛想がない。一緒に楽器工房を営み、仕事以外にも定期的にスカッシュをして遊んだりもする中であるマクシム(アンドレ・デュソリエ)についても、彼は友人ではなくプライベートを干渉し合わない仕事上のパートナーに過ぎないと言い切る。

愛について、「書かれたものは美しい」と限定する彼は、恋愛を賛美する用意はあっても、それに巻き込まれて観察者のポジションを危うくするのは趣味ではない。音楽についても、それは身を委ねるものではなく、宝石の美しさに見入ったり、精密機械の作りの見事さに感嘆したりするように、あくまでも観察者のポジションから楽しむものなのだろう。おそらく、美しい女性--即ち、ヴァイオリン奏者のカミーユ(ベアール)に対してもそうなのだと思う。雨の中、レコード録音の合間に彼女に誘われて入ったカフェ。そこで彼はカミーユを黙って見つめた後で彼女に告げる--「君が話しているところを見ていたい」。この言葉を彼は意識の上では文字通り意味で発したのだったと思う。当然のことだが、カミーユは彼の言葉をもっと特別なメッセージとして受け止めたのだが。

カミーユは体当たりの人である。一旦、好きだと思ったら、そして相手も同じ気持ちだろうと確信したら、ろくろくデートもしない内に、もじもじしている男性に「抱いて」と単刀直入に迫る。彼女は自分の感情を抑えない。2カ月前に知り合って恋人になったばかりの男性マクシムという存在があろうが、新しい対象が恋人の友人(マクシムはステファンをそう捉えている)であろうが、躊躇わない。自分の直感に従ってどんどん男と寝るタイプで、傷つきやすい癖に傷つくことを恐れない。

音楽に対しても観察者ステファンと違って、彼女は自身を音楽に委ね、その内側に入って自身が音楽そのものとなって生きるような、そうした深い関わり方をする人間だ。だから、彼女に掛かるとつまらないフレーズも生気に満ちたものになるのだ。このように、ステファンとカミーユは他者や音楽に対して全く対照的な態度を示す人間だ。

ところが、彼らには似たところもある。どちらも自分の内面を満たすことにプライオリティをもって生きている人間で、他人に自分の世界を多くは語らない。そうした点において、社交的に生き生きと活動するマクシムとの比較では、2人は似たもの同士と言え、互いの一面的ではあるが鋭い理解者でもある。ステファンは「彼女は言葉では語らず、演奏で感情を表現する」とカミーユの特質を見抜いて好ましく思う。彼女はステファンの音に対する繊細さと厳格な態度に、自分にはない美徳を見出し、魅了されてしまう。観察者だからこそ見抜くカミーユの美徳、体験至上主義者だからこそ魅了されるステファンの美徳--彼らはマクシムの頭越しに、マクシムのような人物には到底感じることの出来ない特別な引力を感じ合っていた。

しかし、ステファンは、マクシムに対してもそうだが、自分自身の感情がなかなか分からない男なのである。彼がマクシムのことを「互いに利用し合っているだけの仕事上のパートナーに過ぎない」と言っても、心の底からそう思っているわけではない。現に、ステファンがカミーユとの出会いを2カ月間も黙っていたことがわかったとき、彼はそれを不満に思う。前述の「君が話しているところを見ていたい」も、彼のつもりは文字通りであっても、彼自身すら認めていない感情は彼女を求めていたのだ。ステファンのカミーユに対する思いは、むしろマクシムの方が良くわかっているくらいだ。彼は自分がこれからカミーユと住むために改装させているアパートの部屋にステファンを招いた時に、彼の様子からそれを見抜いた。

一方、カミーユと言えば、自分の気持ちが分からないなどという状態がありうることすら理解できないようなタイプの女性である。だから、彼女はステファンを理解できず、彼を困らせ、結果的に自身も深く傷ついてしまう。

激しい決裂を経ての8カ月半後の再会。このラストシーンに対する解釈は意見の分かれるところだろう。断絶の期間に、2人の共通の音楽教師であったラショームが死んだ。カミーユが「ラショームを愛していたの?」と訊くと、ステファンは「彼しか愛せないと思った」と答える。この後に続く秘された言葉は、「だが、今は違う。君を愛せると分かったから」なのか。それとも、「けれども、その彼ももはや居ない」なのか。仮に前者だとしても、カミーユの方はステファンをどう思っているのか。

妻に言わせれば、この映画は2人の恋愛の序章部分を描いたものなのだという。ステファンもようやく自分の真の感情を自覚し、恋愛を進展させる準備が整った。彼はもともとこういうことに時間の掛かる男で、別に今回の出来事で生き方を変えたとか、そういうことではない--この解釈にはある種のリアリティを感じる。そして、最後のショットが与える印象は、この解釈を採用すると他の解釈とはぐっと違ったものになる。最後のショットは、カミーユとマクシムを見送った後、カフェに一人座って物思いにふけるステファンを窓越しに捉える。彼があくまでも自分流を貫く不敵な男に見える。カミーユは屈した。マクシムは哀れな男だ。カフェの窓ガラスの向こう側で悠然と座るステファン--誰も彼に干渉して生き方を変えさせたりすることなど出来ないのだ。

反対の解釈も成り立つだろう。恋愛は終わったのであり、8カ月半前に2人の間に起こったことを、2人とも過去のものとして受け止めているという解釈だ。共に傷は癒えて、互いに相手に対して冷静になれて、そして以前より相手に対する理解が深まったので、寛容な気持ちになっている。マクシムがステファンに対して示す驚くほどの寛容さを、今や2人も互いに対して持てるようになったというわけだ。果たして、どちらの解釈が正しいのか。ラストショットのステファンの表情は微妙だ(個人的な事情で恐縮だが、10年近く前にTVから録画したビデオテープで見たので、解像度も悪く、余計に判断しにくかった)。

ところで、映画の中盤でカミーユはステファンに対して、「貴方のような空虚な人間に音楽が分かるわけがない」というような態度を取る。体験至上主義者カミーユらしい考え方である。ジャンルを問わず、「人生経験を積まなければ、芸術はわからない」といった言説を耳にすることは少なくない。しかし、それは嘘だろう。もしそうだったら、モーツァルトをはじめとする神童と呼ばれる芸術家たちをどう説明するのか。カミーユ的人間にはカミーユ的な芸術世界が、ステファン的人間にはステファン的な芸術世界が存在するのであり、ステファンの芸術の愛し方を否定することは誰にも許されないはずだ。

この映画でカミーユはラヴェルばかり演奏するのだが、ラヴェルはむしろステファン的な人間だった可能性があると思う(いい加減な推理でしかないが)。そうだとすれば、ラヴェルの曲(ヴァイオリンソナタ、ヴァイオリンとチェロのソナタ、ピアノトリオ)を集めたアルバムに取り組んでいるカミーユが、ステファンに出会って、たちまち彼に魅せられるのは、極めて納得できる展開だ。しかし、結局、彼女はラヴェル自身になることはできない。彼女流のラヴェルを弾くしかないのだ。演奏者とはそういうものだ。ラストの解釈にもよるが、この映画に彼女がそのことを学ぶプロセスを見ることも出来るような気がする。それにしても、演奏シーンを演じるベアールは見事だ。当て振りには見えない。この人は本当にヴァイオリンがうまいのじゃないかと思ってしまう。

映画の原題は邦題とは全く違う。"Un Coeur en Hiver" (A Heart in Winter) 。「冬の心」は、カミーユ側に立ったステファンの表現であろう(彼は彼なりに充足していて、自分では冬だなどと思っていないのではないか)。そして、映画自体もカミーユ側に立っていて、「世の中にはこういう男もいるのだ」とオブジェのようにステファンを指し示しているように思われる。映画の導入部ではステファン側に立っているのだが、最後まで見ていくと、そう思わざるを得ない。

映画は最初、ステファンが自分とマクシムを紹介するナレーションで始まる。だから、これから見るものは、彼の目を通して眺めた世界なのではないか、と期待するのだが、その期待は痛烈に裏切られる。彼はそれ以降、観客に対してまったく口を閉ざしてしまうのだ。その一方で、他の登場人物たちは互いに「え、そこまでズバズバ言うか?」と思うくらい自分の思うところを率直に語り合う。そして、彼らは互いを非常によく理解し合っている。マネージャー役のレジーヌ(ブリジット・カティヨン)とカミーユはケンカをするけれど、それは不理解ということではなく、互いのことをよく分かった上でただ感情的に抑えられないだけだ。

少ない登場人物たちによるこうした以心伝心的関係によって、映画は息苦しいほどの密室的空気を感じさせる。その中にあって、ただステファンだけが、自分を語らず、周囲から不可解な人物として浮いていく。観客も彼自身の内面については勝手に想像するよりほかなくなる。そして、彼の一人浮いたイメージは、前述のラストショット--カフェで一人孤独に座っている彼の姿へとそのまま凝縮されて、映画は終わるのだ。ステファンの内面からスタートしながら、映画はすぐに彼を外から眺めるようになり、どんどん心理的には彼から引いていき、最後に置いてきぼりを食らわせるように終わるという演出で作られているのだ。多少なりともステファンにシンパシーを感じた男性(私のことだが)が、見終わった後もこの映画が後を引くように気になってしまうのは、この演出のせいだろう。

偶然、エニアグラムを踏まえたこの映画の分析を見つけた。エニアグラムはその公理を信じることは保留にしたいが、人物を包括的に理解するときの助けにはなると思う。エニアグラム的に言うと、私にはタイプ5的要素があり、ステファンはまさにタイプ5的であると思っていたので、やはりタイプ5を自認する筆者が書いたこのテキストには共感するところが多く、示唆を受けたところも多々あった(同意できなかったところもあるが)。

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『シンセミア』(3)--悪意の「読書モデル」

『シンセミア』は最後まで正体を明かさない語り手によって、基本的に三人称で語られている。無論、三人称で書かれた小説の常套手法である、登場人物の意識が入り込む部分(独白的な部分。”一人称化”している部分)は随所にある。これまで2回の記事で議論してきたのは、それ以外の地(じ)の語りの部分についてだった。しかし、この地の部分でも、その語りには、まるで登場人物に感化されたかのように、彼らの言語が入り交じっている。

例えば、「都心では様々な未知の興奮材料が絶えず供給されまくっていることは、日々のあらゆるマスメディアが報じており、それを知らんぷりしていられるほどの長閑(のどか)さなど彼らは持ち合わせていなかった」(上p.67)。また、「執拗に『バーン!』と言い続ける少年の目付きは、一人ぐらいは殺(や)ってそうな雰囲気を漂わせており、かなりのやばさを感じとらせた」(上p.204)、「隈元光博は、ショベル・ローダーの側面に手を着かせて屈むような体勢で彩香を立たせて、背後から彼女の尻を掴み、マンコにチンコを挿入してゆっくりと腰を前後に動かした」(上p.342)といった具合だ。

さらには、語り手の言語だけでなく、発想までが登場人物と同じになる箇所もある。一番顕著なのは次のくだりだろう。「強い欲求と執念が、彼の脳裏に一つの勇ましき妄想を生み出していた--笠谷保宏はすなわち、ロボット戦隊フィスト・ファックなのだった」(上p.74)。フィスト・ファックへの固執を子ども向けTV番組のタイトルになぞらえて表現するという、笠谷本人なら思いつきそうな駄洒落を語り手自らが披露している。また、次のくだりは、語り手が登場人物たちと同じような思考の持ち主ではないかと疑わせる。「ある程度は裏社会での経験を積んだ身でありながら、三沢次郎は、自らの発言を活かす機会を悉(ことごと)く見誤っていたのだ。そんな男だから、一攫千金の好機もみすみす取り逃がしてしまうというわけだ」(下p.142)。

超越的地位から身体性を欠いた言葉で物語を語る語り手が、時折、このように登場人物たちの身体を我が身に纏おうとするのだ。一体、この語り手は何者なのか--そういえば、語り手の正体は、『インディヴィジュアル・プロジェクション』では重要なポイントであった。

実は、語り手の素性を考える上で気になる箇所が小説の始めの方に一箇所だけある。序章にあたる「田宮家の歴史」の中で、「・・・フィルが言うには、上空から見下ろすとまるでそこだけが空洞になっているかのような状態だという話だった。フィルというのは、駐留基地にて田宮仁が特に親しくしていたアメリカ人兵士の一人だ」(上p.15)というくだりがある。

単にフィルが語った内容を読者に伝えることが目的であれば、このような書き方をする必要はない。フィルを読者に紹介する意図があるのかとも思い、名前を記憶に止めながら読み進めると、なんとフィル二度と登場しない。であれば、ここでは語り手と田宮仁との関係が仄めかされていると考えるのが普通だろう。しかし、語り手は最後まで正体を現さない。

なぜフィルはファーストネームで語られるのか? この小説の文体の特徴の一つに、主語が繰り返しフルネームで登場するという点が挙げられるくらいなのに。センテンスごとに「笠谷保宏は・・・」とフルネームを繰り返すような書き方は、従来の日本文学の感覚ではない。なるべくそうした繰り返しは避けるのが普通だ。

あるいは、語り手は全知全能の存在ではなく、物語の時点よりもずっと後になって、自分が伝聞した「神町サーガ」を語り直している存在なのかも知れない(新聞配達人・星谷影生の末裔?)。この部分がサーガ的様相を文章に与えているということは出来るだろう。しかし、フィルについては田宮仁の証言を情報源とするしかなかったのに、他の諸々のことについては、各登場人物の心の奥底までそれこそ神の如く知り尽くしているというのも奇妙である。

また、論理的には語り手が登場人物の誰か--たとえば、最後に登場する「阿部和重」であることも可能だろう。彼が知り得ないところは、彼がねつ造したフィクションだと見なせばいいのだ。しかし、そうした解釈は、この小説に対して何ら有効な視点をもたらさない。『シンセミア』は、『インディヴィジュアル・プロジェクション』とは同じレベルで捉えられるべき小説ではないのだ。

『シンセミア』の語り手の素性は、小説世界内にではなく、むしろ外に求められるべきではないか。

読者は、おそらく登場人物の誰にも共感できないだろう(エキサイトブックス「阿部和重ロングインタビュー」のインタビュアーも阿部を前にそう告白している)。しかし、登場人物たちの欲望になら、身を沿わせることができるようになる。前に、この小説の読書体験は、「陰惨な出来事が次々とマニュアル的な文体で没価値的な情報として垂れ流されている--そういう事態に自分から関与して、その退屈さに耐えつつ自身を慣らしていく」体験であると書いた。慣らしたのちに、あるいは慣らす過程でやってくるのは、登場人物の人格は度外視しつつ、彼らの欲望への局面的な共鳴である。早い話が、この小説をエログロ趣味の娯楽として読むということだ。

陰惨な出来事の連鎖を情報として没価値的に受信しつつ、登場人物たちの欲望の発動に局面的に身を沿わせる--そのような読者のスタンスのあり方を、読者に対して自ら規範となって示しているのが、語り手なのではないか。つまり、語り手は著者によって提示された「読者モデル」であるというわけだ。

これが小説に込められた阿部の悪意でなくてなんであろう。小説を読み終えた者は、阿部の「これがお前だ」という「読者モデル」の提示を完全には退けられないだろう。なんにせよ、その者は、あの長大な物語を最後まで読み終えているからだ。「最初は嫌々でも、最後まで付き合ったんだから、お前だって、少しは楽しんだんだろう?」というわけだ(まるで神町青年団のメンバーが言いそうなセリフではないか)。そして、哀れな読者には、この「読者モデル」が『シンセミア』にだけでなく、マスコミを通じて日々受け取っている「陰惨な出来事の連鎖」に対しても適応できるのではないか、という問いが待っている。

実際、マスコミの供給するニュースに対して、暗い欲望を暴発させる者たちは確実に存在しているのだ。例えば、イラクで人質になった3人に匿名の攻撃を仕掛けるような人々のことだ。彼らはなんのためにそのような行為に及ぶのか。署名入りで言論を掲げるのならともかく、彼らの目的は社会正義ではありえず、自身のうっぷんを晴らすはけ口を求めてやっているとしか思えない。こうした行為に及ぶのは突出した人々だとしても、彼らの裾野には、マスコミの供給するニュースを消費しながら、その中に自らの欲望を重ね合わせることができるような素材をたえず探しているような人々が無数に存在しているのではないか。そして、そのことを知っていて、意図的にエサを与えようとする人々がいて、マスコミはそれがなんであれ、商品価値の高いものを売る。マスコミに限らず、Webメディアに氾濫する言説も同じだろう。それがどんな出来事であれ、マスコミと人々は、それを消費の対象として扱い、すぐに忘れ去る。

保坂和志は「小説とは本質的に『読む時間』のことだ」と言っているが、『シンセミア』は物語の内容よりも、むしろ読む時間を通してこそ、上に述べたような状況に対する批判を提出しているのだと思う。『シンセミア』は、おそらくその版元がどこであるかということまで含めて、それ自体が批判対象のカリカチュアとなるような形で提示された全方位で悪意に満ちたオブジェなのだ。

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『シンセミア』(2)--枠組みと読書体験

前の記事の続き。
『シンセミア』では、単語は辞書から取り出された履歴をもたない記号のように無表情であり、言い回しは語り手自身によって使い込まれたものというよりクリシェのリストから意識的に選ばれたかのようだ。だから、読者は語りから語り手の生きた存在を察知することができなくなる。まるで、マニュアルでお目にかかるたぐいの文章にも似た手応えのなさだ。言葉から語り手の身体性が消失しているのだ。

小説では、田宮家の三代目が上京した際に、渋谷の文化村通りをトラックが暴走して、多数の礫死体が道路に散乱する事件に遭遇する。彼にはこのすざまじい暴力の光景がトラウマとなって後々まで尾を引いてしまうのだが、実際にそんな場面に遭遇したら、誰でもPTSDを発症することだろう。ところが、このくだりを読んでいて、確かに記述されている内容は阿鼻地獄であろうという理解は得るのだが、ちょうど「阿鼻地獄」という言葉が今日多くの人に特になんの具体的イメージも呼び起こさないように、その場面の陰惨さが胸に迫ってくるというようなことにはならなかった。語り手の言葉に、私の身体的に反応するような共感性が欠落しているからだろう。それは感情と結びつかない単なる情報に留まっている。

この点で、阿部の文体はブレヒトの異化効果にも似た作用をもっている。けれども、ブレヒトがそれによって観客に劇内容に対する批判的な見方を促したのに対して、阿部の文体は、内容に対する無関心へと誘う。

それにしても、この小説では、次にどんな酷いことが起ころうと無感動に読めてしまう。次の一行で神町の町民が全員死ぬような事態が発生しても、「ああそうなの」という感じ。そして実際、酷いことばかりが起こって、それを淡々と読み続けるという体験が続くのである。しかも、実世界で生きていく上で必要なニュース報道をマスメディアから受け取る行為とは違って、小説を読む行為は基本的に不必要であり、いつ放棄しても構わないことを自分が好きでやっているのだから、始末が悪い。

陰惨な出来事が次々とマニュアル的な文体で没価値的な情報として垂れ流されている--そういう事態に自分から関与して、その退屈さに耐えつつ自身を慣らしていく。『シンセミア』の読書体験とは、そういうものであり、これがこの小説の書かれた意味なのだと思った。この体験の後味の悪さと、小説が提示する「日本の戦後史の縮図」という枠組みを重ね合わせて考えるべきなのかもしれない。すなわち、読書体験がそのまま私たちの現在の隠喩だという風に。ただし、枠組みと読書体験の間には論理的な関係は存在しないのであり、それを結びつける判断は読者自身が行うことだ。

ところで、これまで、小説の文章について、語り手の身体性を欠いたマニュアル的文体と評してきたが、それは大ざっぱな評で、より詳しく見ていくと、そうとは言い切れない部分がある。そこには阿部がこの小説に込めた読者への悪意が滲んでいるようで、ますます気持ち悪いのだ。その辺が、この小説が「シンセミア」(種なし大麻のこと。効果の強いマリファナを意味する)と呼ばれる理由でもあるのだろう。

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『シンセミア』の気持ち悪さ(1)

2週間前に書いた記事で、阿部和重の小説『シンセミア』について書いたけれど、あの小説の気持ち悪い読後感はいまだに続いている。あの記事では、鐘下辰男の芝居[ 現代能楽集II 求塚 ] との対比で、「日本の戦後史の縮図」という取り上げ方をしたのだが、おそらくあの小説の重要性はそういうところにはないのだろう。少なくとも自分にとっては、このボディーブローのように効いてくる気持ち悪さにこそが、『シンセミア』体験の意味だと思うようになった。

あの小説の読書体験というものは、「日本の戦後史の縮図」というような予め掲げられた枠組みを頭の隅に置きながらも、その大部分の時間は、倫理観の欠片もないような青年団のメンバーたちが盗撮行為をしてはその映像を鑑賞しあって愉しんだり、リーダー格が女教師を恐喝してポルノ映画まがいのドロドロの性的関係に追い込んだり、主婦がコカインに溺れたり、ロリコン警官が女子小学生に目を付けていびつな妄想を膨らませたり、といったウンザリするようなエピソードを果てしなく読んでいく体験である。だから、途中で投げ出したくなったことは一度や二度ではないが、それでも、「ただこんな話を読ませるために書かれた小説ではないはずだ」という判断を信じて、最後まで読み続けたのだった。冒頭で「日本の戦後史の縮図」的な枠組みが与えられていなかったら、おそらく挫けてしまっただろう。

しかし、あの人を食ったような最後のオチ(そういえば『インディヴィジュアル・プロジェクション』もそうだった!)まで読み終わってみて、この小説が、ここまで長くなければいけない理由は何なのか、どうしてあのようなエピソードを延々と読まなければいけなかったのか--そういう疑問というか、淀みのような思いがあとに残る。そして、その意味をいま、延々と尾を引く気持ち悪さとして私は味わっているのだと思う。

気持ち悪さの最大の理由は、たぶん文体(あるいは語り手の素性というべきか)にある。上に紹介したような内容がどのような文体で書かれているのか。適切な引用じゃないかも知れないが、極端な例として挙げるならこんな文章だ。

中でもとりわけ極端な驚駭(きょうがい)を示したのは、松尾園子だった--生気を欠いた園子の面立ちは、唯一無二の崇拝の対象とでも出会(でくわ)したみたいに畏懼(いく)の相貌へと変わってゆき、さらには全身全霊を捧げる心算(しんざん)でいるかのごとく、赤く輝く鉱石の存する上方に両手を高々と差し出して、彼女は嗚咽を漏らし始めたのだ。(下p.256)

やたら硬い熟語が多いことに気づくと思う。多いだけではなく、これらの「驚駭」だの「畏懼」だの「相貌」だのといった言葉がもっているイメージ(辞書的意味ではなくニュアンスのようなもの)が、語られている内容に全然そぐわないのだ。

言葉のイメージは、「相貌」なら「相貌」という言葉に、これまでにどんな文章の中で出会ってきたかで形成されるのだろうが、阿部の小説は、少なくとも私にとって、これまで「相貌」という言葉に出会ってきた文章群とはまったく異質のものだ。ここでは、言葉が、その言葉の使われ方の履歴に対する配慮なしに、単に辞書に書かれた意味程度のことだけを指示する記号として取り扱われている。そのような言葉の使われ方が私にとってまず気持ち悪かった。

でも、この小説を読んでそんな風に思うのは、私が知らないだけで、官能小説なんかではこんなのはすでに当たり前なのかも知れない。それに、この「言葉の履歴の切断」の問題は程度問題で、私自身がものを書いているときにもある程度当てはまっているのだろう。ただ、『シンセミア』ではそれが意図的に極端に行われているのだ。読者が、その切断の不気味さに気づかずにはいられないように。

いや、不気味さが意図されているのかどうかははなはだ怪しい。むしろ、「これがいまや当たり前だ」という感覚が阿部に言葉に対するこのような態度を選ばせているのかもしれない。というのは、彼がこの小説を書いている頃に東浩紀と行った対談(東浩紀『不過視なものの世界』に収録)で話題にしている映画やアニメの世界で起こっている現象(東はのちにそれを物語消費からデータベース消費へのシフトと表現する)が、言葉に対する阿部のこのような態度とパラレルであるように見えるからだ。そうだとすれば、すでにこのような感覚は世界的に蔓延しつつあるのであり、それを不気味に感じるのは、少し古い感覚の持ち主なのかもしれない・・・

辞書とはすなわちデータベースであり、言葉が辞書と文法で成り立っているのなら、この事態は言葉の本質的に根差す姿であろう。だが、人は言葉をそのようには学んでこなかったし、使ってもこなかった・・・・・・ここには若者の言語感覚やコミュニケーションのことなど、色々な問題が関連してくるように思うけれど、今はこの問題はおくことにして、それよりも『シンセミア』の気持ち悪さについて、もう少し続けて書いてみたい。

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