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アメリカの倫理観(『ドッグヴィル』)

古い話題で恐縮だが、アメリカ大統領選でのブッシュ再選の要因として、有権者が「倫理観」を重視したからだ、という調査・分析結果が報道されている。

大統領選の出口調査によると、有権者が投票で最重視した課題で、最も多かったのは「倫理観」の22%。次いで「経済・雇用」(20%)、「テロ」(19%)などの順だった。「倫理観」と答えた人のうち80%がブッシュ氏に投票しており、今回の大統領選はテロ対策やイラク戦争と同じかそれ以上に倫理観や信仰が隠れた大きな争点となり、ブッシュ氏の再選を支えたことがわかった。(毎日新聞)

いい加減、アメリカ政府から発せられる「正義」とか「民主主義」という言葉に対して、もうウンザリしているわけだが(目をそらしてきた現実に対してしつこく直視を迫られているからだ)、再びブッシュを選んだのはアメリカ人が「倫理観」を重視したからだ、という話を聞かされると、倫理という言葉に強いアイロニーを感じないではいられない。彼ら(ブッシュ再選を担った人々)が倫理について考える時、それは同性婚や中絶を禁止して、彼らの宗教的価値観を尊重するという程度の意味でしかないのだろう。

dogville2.jpgそう言えば、今年の初めに、そんな彼ら流の「倫理観」や「正義」「民主主義」を、概念としてではなくイメージとして捉えるのに、おあつらえ向きのものが、我々に与えられていた。ラース・フォン・トリアー監督の映画『ドッグヴィル』のことだ。全編が倉庫の中で、しかも「床に家や道を示す線が引かれただけのセット」で撮影されたという、あの怪作だ。

教会で寄り合いを持ち、合意の元に取り決めをする--そんな素朴な民主主義スタイルを「正しさ」の担保にして、闖入者グレース(ニコール・キッドマン)に対して、どんどん欲望を剥き出しにしていく村人たち。そして、最後にそんな村人たちを神の立場から裁くグレースと彼女の父(ギャングのボス)。終盤で、村人の処分をめぐって、父娘が行う会話は、まるで寛容な神と厳格な神の対話のようだった。彼らが神々のように見えたのは、無論、村人を生かすも殺すも彼らの胸先三寸であり、その決定は、彼らにとっての抽象的な善悪の議論によって検討されていたからだが、彼らが座っていた高級車の中は、殺風景な村の風景(なんせ倉庫の床にちょっと家具があるだけ)と比べると、柔らかなクッションに包まれていて、天国のようにも見えた効果もある。

自分たちの理念のために貧しき者たちを裁くグレースと父、民主主義のネガティブな部分(市民でない者にはどこまでも残酷になれる)において暴走したドッグヴィルの村民。彼らはどちらもが、国際社会におけるアメリカの行動の倫理的欠陥を表す2つのイメージと言えるだろう。

最後に、倉庫世界から彼らが消え失せ、(再び)つるつるの床と空虚な閉鎖空間だけが残った時--「孤立したアメリカ」の倫理的な無根拠性を見る思いがした。

ついでながら、そうしたつるつるの床と空虚さの中で、ずっと床に描かれた線でしかなかった犬だけが、唯一現実の存在に反転して、観客に向かって威嚇するように吠えるというラストは、「アメリカの消費社会に人間の動物化をみる」というアレクサンドル・コジェーヴの見解を連想する(東浩紀の著書で得た間接的な知識に過ぎませんが)。あのラストには、もう、我々はあの犬に噛みつかれて、毒が回っているのかも知れない、と思わせる怖さがある。我々を待っているのは、ドラキュラに噛まれた者の末路と同じだ。

「床に家や道を示す線が引かれただけのセット」で撮影するという手法については、その意味を色々に考えることができるだろう。今さら過ぎるので、もう書かない。ともあれ、そのジャンル(映画)のもっている表現手段と一般的に考えられているものをあえて部分的に破棄することで、代わりに別の強力な表現力を手に入れる、という創作姿勢はシビれる。こういうチャレンジは、自分にとっての芸術家の理想像に近い。

この記事を今さら書いたのは、実は、最近、DVDで『ドッグヴィル』を見たという手塚さんとメールでやりとりを3往復くらいしたからで、メールした内容を編集して、書きそびれていたことをまとめておこうと思った次第。お陰で、こうして1本短い記事が出来ました。手塚さん、ありがとう。

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「dance today 11 ダンスをめぐる風景展」(USUSU/勅使川原三郎)

遅ればせながら、稲倉HPの方に先月横浜で開催された「dance today 11 ダンスをめぐる風景展」の感想を書いた。久々の稲倉HPの更新。ブログを始めた時に、もしかしたら、ブログばかり更新してHPの方が放置されてしまうのでは、と不安がよぎったのだが、その不安は的中しつつある。書いたものは全部ブログに載せればいいじゃないか、とも思うのだが、現在のところ、このブログは検索エンジンから完全に無視されている。一方、HPの方はgoogleなどからわりと尊重されている様子なので、どちらに掲載するかという選択は結構大きいのだ。自分のページのことも、自分のページだけで問題が完結していないのがWebというものだな、と感慨にふけったりもする。

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CalLogとデジオ

最近話題のパーソナルな情報発信のためのWebツール2題。

■「CalLog」は、空いた時間に携帯電話でちょっと書いては送り、Webにログを貯めていく新感覚の日記。
別にケチを付けるつもりは毛頭ないけど、デザインを見て、私は強い違和感を覚えた。こういうデザインをした人、そしてこれを受け容れられる人は、どこか時間感覚が決定的に自分とは違っていると思った。「CalLog」の「Cal」は「Calendar」のことなのだが、カレンダーというよりもカウンターのごとく日付が並んでいる。年も月も日もすべて均等な文字サイズで、2004年11月10日なら「041110」というように日付が表記されているのだ。そして、ここには曜日の表示がないから週サイクルという感覚もなく、均質な時間の流れが綿々と続いている感覚なのだ。機械的なカウントアップには死の匂いすら感じてしまう。10代、20代の人は、こういう時間表現をクールと感じるのだろうか? 不気味だ、とオジさんは思う。

■「デジオ」は、自分でラジオパーソナリティを気取ってお喋りを録音して、それをWeb上にMP3ファイルとして置いていく、音声ブログ的表現手段。
「デジオ」の「デ」はデジタルの「デ」ではなく、「でっちあげ」の「デ」だという。だからスペルもde-dioなのだ。Web上に一般人たちのHPが怒濤のように無数に立ち上がった頃、マスメディアで言論を担う人々のテキストばかり読んできたそれまでの感覚が大きくシフトするのを感じて興奮を覚えたものだ。しかし、あまりに氾濫してきて慣れてくると、読む側の興味はテキスト止まりになって、テキストの向こうにいる無名の書き手にまで想像力が及ぶことは余りなくなってきた(少なくとも私はそうだ)。しかし、「デジオ」には肉声の生々しさがある。まったく知らない、顔も見たことのない人なのに距離感が圧倒的に近いのだ。この感覚がとても新鮮。

もうひとつ、テキストの情報発信と違うのは、ブログなどを書く行為は、自分だけのために日記やメモをPCに打ち込む行為に、作業としては非常に近い。そのため、慣れてくると(そして当サイトのように不人気サイトままにでいると)、他者へ向けて情報発信しているという感覚が次第にあやふやになってくる。しかし、「デジオ」の場合、マイクに向かって話すという作業が必要になるから、発信者はかなり自覚的にならざるをえず、その人の考える面白さが強烈に追求されることにつながる(それがはなはだ気色悪いものになってしまうケースもあるのだが)。また、(すべてのデジオ制作者が採用しているわけではないが)「ラジオ番組」というモデルがあるので、テーマ曲、冒頭の挨拶、喋り方、ジングルの挿入など、ゴッコ感覚に溢れている。その辺もまた、「デジオ」が奇妙な味わいをもっている理由だろう。(音声だからブラウズに時間が掛かるのが難点。まずは、タナカカツキの「デジオナイト」や「デジオ女学院」の最初の数回、18回目までの「デジオ番外地」辺りを聞いてみるといいかもしれない。)

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