12月2日、五反田ゆうぽうとで『シルヴィ・ギエム、コンテンポラリーを踊る』を見る。チケット入手のアクションがちょっと遅れたがために二階の後ろの方の席しか取れなかった。ジョージ・パイパー・ダンセズとギエムによるラッセル・マリファント作品集(デュオ『Torsion』、ソロ『Two』、トリオ『Broken Fall』)。マリファントが組んでいる照明デザイナーのマイケル・ハルズは非常に暗い照明を好むようで、それがゆうぽうとの二階の後ろの方からでは、本当に見辛い。ダンサーが終始2m四方にとどまっているという(もっと狭いように見えた)ギエムのソロ『TWO』など、オペラグラスで見なくては話にならない作品なのだが、オペラグラスは光量が落ちるから、とてももどかしいことになる。これで1万円か!ギエムというスーパースター鑑賞料だからこんな額になるのだ。スターを見せることに力点をおくなら、多少演出を妥協してでももっと照明を明るくするのが筋だろう。
たぶんマリファント作品が今回の上演のあり方にミスマッチなのだ。彼の作品がその良さを最大限に発揮する上演の仕方は、ゆうぽうとのような大きなホールで、ファン目当ての上気した観客たちを前にやるのとは方向性が違うのではないか。スターを使わずに、シアタートラムくらいの小屋で、落ち着いた雰囲気でやるのがいい。値段も半額にする(1万円なんてバカげている)。シアタートラムでそれなりに力量のあるスターでないダンサーがやっていたら、凄くクールでカッコイイ一夜になったはずだ、マジで。・・・作品を中心に考えるとそうなると思うのだが、ギエムありきという公演なのだから、そんなことを言う方がヘン、と思われてしまうかもね。
ギエムに罪はないが、それでも非常に残念に思えてしまうのは、マリファントの振付は、ダンサーの身体が細部までクリアに見えてこそ、その素晴らしさが十分に味わえるのではないか、と思えてならないからだ。彼の振付を見ていると、スピード感がじわじわと伝わってくる。ユニークなのは、そのスピード感が物理的速度によって生まれているのではないということ。それは運動の継続性によって与えられるのだ。運動を司っているダンサー自身よりも、身体の部分に生じさせた運動の方が主役になっているように見えた。運動の継続の滑らかさの影で、ダンサーの身体は運動のメディアとして隠れて存在している。運動は時には切断されるのだが、それはダンサーが主体性を発揮する瞬間というよりも、運動の消滅として体験された。また、一つのメディア(あるダンサーの身体)から別のメディア(もう一人のダンサーの身体)への運動の伝搬と、それによる運動の変質という現象の面白さ。運動の編集センスがいい、と思った。
ダンサーのムーブメント自体は、特に目新しさもなく地味なものが多い(小さい小屋でやれば、その地味さがまたクールに感じられたことだろう)のだが、それらを遂行していくときの振付家の関心の持ち方には独自のものがあるしセンスもいい、そして関心事に集中して派手な動きや演出手法などには手を出さない潔さがある(だからクール)--かなり想像で補っての判断だけれど--ということを、推察でなく、はっきりと体験したかったものだ。次はギエム抜き出やってくれ。
前日に1階席で見ていたという手塚さんのブログにTBしておこう。
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