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横浜ソロ×デュオ<Competition>+ソロ×デュオ部門1日目

ソロ×デュオ部門は、30日との二日間で行われるコンクールなのだが、残念ながら、1日目しか見られない。なので、1日目のみの感想を速報的に書く。だいたい、公演を見たその日のうちに勢いで書いてすぐに公開すると、後で後悔することが多いが、まあ、いいや。

岡本真理子[スプートニクギルー]。彼女はここ3年くらい、このホールや森下スタジオ、STスポットなど登竜門の常連だが、その先へはまだ行けそうにない。すぐに退屈してしまうからだ。30分近い上演時間で、彼女の動きのだいたい半分くらいは、冷蔵庫を開ける/閉める、物を取り出す/仕舞う、ブーツを履く/脱ぐ、床の上で座り位置を直す、糸をたぐり寄せる、といった目的行動で占められているような気がする。その動きはヴッパタール舞踊団のダンサーのように洗練されているわけでもなく、チェルフィッチュのようにイマドキの身体からの抽出・誇張が見られるわけでもない。ごくありふれた、彼女が自分の部屋でやっていそうな動きにしか私には見えない。そうした身体表現とは無縁の日常の身体から、ダンス的なものが仄かに滲み出てくる瞬間の面白さみたいなものを狙っているのだろうか? 冷蔵庫の上に座って足をぶらぶらさせる時の足首の角度の変化とか。ブーツを履いた勢いでつんのめるようにばたんと倒れてみるとか・・・しかし、そこにはスイッチを切り替えるような態度の変化があって、意外に繊細さに欠けると私は思うのだが。彼女の舞台にはいつも小さな物(しばしば、それは前の方の座席に座っていなければ、よく見えないようなものだ。この舞台に対する無頓着さも好きになれない)がいろいろと散在している。おそらく、それらの小物群と彼女の身体の関係性が、作品の意味を主に担っているのだろうが、しかしそこからファンタジーがいっこうに立ち上がっていかないのは、観客である私と趣味が合わないせいばかりではなく、彼女の身体に強度が足りないからだと思う。

先週見たMOMIX[オーパス・カクタス] には、それがもの凄くあった。舞台装置らしき物はほとんどなかったけれど、ダンサーたちの身体からファンタジーが広がっていった。一人のダンサーの足ともう一人のダンサーの腕が見事なユニゾンの動きを見せ、四つんばいで後ろ向きに進んでいるダンサーが前に進んでいるような動きに見え、ごく自然に、身体の常識的な見方から解放されたのだし、一人のダンサーに複数の動く主体を、二人のダンサーに一匹の生き物を幻視してしまう興奮があった。そういう点では、三好絵美[sinking float ] は一人MOMIX的と言いたくなるような、身体を見る愉楽に満ちている。MOMIX的エンターテインメントではあるけれど、それでいいのかな?という若干の先回りした疑問も含意させたコメントではあるが。ともあれ、今日は三好が一番だった。この作品は2003年に「踊りに行くぜ!」ですでに見ているので、これを上回るような穫がなかったことは残念だ。

シン・ソル[逆へ] は、身長もありプロポーションの美しいダンサーではあるが、前半舞台で踊ったものを後半スクリーンで逆廻し映像で見せるというワン・アイデアだけ、というのには唖然とした。これで本選に来てしまったというのは、予選の見識を疑いたくなる。それとも外国人枠みたいなものを設けているのだろうか? 長谷川達也[バランス] は、牧阿佐美バレエ団のプリマ、田中祐子とのデュオというキャスティングに驚くが、その意図がまるで読めない作品で、空回りしているようにしか見えなかった。

濱谷由美子[スピン] は、床からビリビリと振動が伝わってきそうな強烈なビートが18分間ノンストップで響き渡る中、二人の女性(共演:椙本雅子)がこれでもかと踊りまくり、それっぽい振り(コンポラ風の振り)が次々と「ぶっちゃけ、これってアホでしょ?」と身も蓋もない状況へ放り込まれていく。時折、客席に怪しげな視線を送ったり、勅使川原の「ケシオコ」をパロったような動きをしたりして、もう、なんだか。実に潔いのだが、額縁を与えるようなシーンを付け加えた方が、判りやすくなると思う。客席にビートに合わせて座ったまま踊り出すような”第三のダンサー”が登場したりしていたので、誤解されているのではと心配になった。セオキョウコ[セカイニタッタヒトリノニンゲン] 。青春している。こういうセンチメントは嫌いじゃない。でも、一般の劇場公演を狙うには早過ぎると思う。

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三浦演出の今日性(地点「雌鶏の中のナイフ」)

1月6日、青年団リンク・地点『雌鶏の中のナイフ』(1月1日~23日、アトリエ春風舎)を見る。デイヴィッド・ハロワーの戯曲は、自分の記憶を文字によって外在化させることで起こる認識の変化を、女の自立のプロセスに重ねるという、なかなか興味深いもののように思われた・・・と、歯切れの悪い言い方になるのは、演出のせいで不明瞭だったからだ。少なくとも、男と女を巡る俗っぽい話と世界認識に関わるような神聖なテーマが不思議に混合されていたことは間違いないだろう。

この目新しい戯曲は面白そうだ・・・戯曲への関心が高まると、その分、演出への苛立ちもより募ってしまう。三浦基の演出はいつもの如く、セリフの意味を掴みにくくするだけでなく、各人物の所在や出来事までを曖昧にする演出だ。「戯曲のことは気にするな、オレ流の世界に集中しろ!」と演出家に命令されている気分。

三浦演出は「アングラのモノ真似だ」という説を聞いたことがある。表面的にはそうなのかもしれないが、ベクトルはまったく逆向きだ。かつてのアングラが戯曲に対して役者の肉体を復権させたのに対して、三浦はその逆のことをやろうとしている。戯曲が演出家の自己表現の素材にまで転落しているのに加えて、役者もまるで舞台美術の一部であるかのようだ。

行動範囲を極度に限定し、行動パターンも制限して貧しく様式化しているところが、役者の身体を装置的(機械)に見せている。そして、”三浦語”による台詞発声は、役者の身体と声を分離する。台詞は戯曲上の会話の相手(つまり舞台上のもう一人の役者)の方を向いて発せられるのではなく、観客の方に向けて発せられる。しかも、会話の間合いはアンサンブルを聴くかのように予定調和的にテンポの調整が共同で図られている。つまり、役者は、個々の存在として台詞を語ったり、相手の台詞に耳を傾けたりはしていない。役者たちは、演出家によってコントロールされたリズムとアーティキュレーションを分担して演奏する一組の舞台装置として、観客に提示されているのだ。

こう書くと、アングラ志向というより、ギリシャ悲劇志向なのかとも思うが、コロスの体現するのが共同体であるのに対して、三浦演出では、役者たちは彼のメディアとなるのだ。

それでは、ときおり噴出する痙攣的に激しい行動や極度に歪められた発声こそが、こうした演出家の圧政を突き破って出現する役者の身体だというのだろうか? そうではなさそうだ。それもまた、演出家の権力の圏内にあり、彼の自己表現にしか見えない。

しかし、戯曲の上演、役者の主体性、演劇のポリフォニーといった観点から、三浦演出を批判するのはそもそも不毛なのかもしれない。もっと別の観点から舞台を眺めれば、こういう公演が行われていること自体、とても今日的なのではないか。

例えば、なぜ安部聡子のような、何をやっても神経質なインテリ女性にしか見えない女優が、自分の資質とはまったくそぐわない役を引き受けて、こうしたパフォーマンスを演じているのか? 小林洋平だって、ワイルドな粉挽きというよりは、今どきの優しい若者にしか見えない。彼らの担うべき役と、彼らの身体の実際とのギャップは、熊倉敬聡が珍しいキノコ舞踊団の舞台を見て憂えた、エロスと向き合う術をしらない身体を想起させる(*)。

そうだ、そう考えた時、地点の舞台における演出家の圧政とは、私たちを去勢し、私たちの身体に浸透していく制度のカリカチュアに見えてくる。そして、アトリエという空間は、私たちがそこから出る方法を思いつけないでいる見えない密室のことだ。この舞台に出現しているのは、エロスの萎えた身体たちが、強引に神話的存在になろうとして、密室の中であがいている--そんな光景なのだ。

たちが悪いのは、演出家は役者の身体を支配すると同時に、役者が圧政に抗するための偽の回路も用意しているところ。それが、前述の「ときおり噴出する痙攣的に激しい行動や極度に歪められた発声」という演出手法であり、すべての登場人物が神話的な様相を帯びる戯曲を取り上げるという選択--「密室から出られないなら、密室を世界と思おう」という回路だ。とすれば、青年団リンク・地点の見所は、三浦演出のケレン味などではなく、青年団の役者たちがいかに彼の圧政に馴化されているか/されそこなっているか、という微妙な境界線にあるのではないかと思えてくる。80分。

(*)熊倉敬聡「珍しいキノコ舞踊団の『フリル(ミニ)ワイルド』を観て考えたこと」、『舞台芸術01』(京都造形芸術大学・舞台芸術研究センター)収録

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