三浦演出の今日性(地点「雌鶏の中のナイフ」)
1月6日、青年団リンク・地点『雌鶏の中のナイフ』(1月1日~23日、アトリエ春風舎)を見る。デイヴィッド・ハロワーの戯曲は、自分の記憶を文字によって外在化させることで起こる認識の変化を、女の自立のプロセスに重ねるという、なかなか興味深いもののように思われた・・・と、歯切れの悪い言い方になるのは、演出のせいで不明瞭だったからだ。少なくとも、男と女を巡る俗っぽい話と世界認識に関わるような神聖なテーマが不思議に混合されていたことは間違いないだろう。
この目新しい戯曲は面白そうだ・・・戯曲への関心が高まると、その分、演出への苛立ちもより募ってしまう。三浦基の演出はいつもの如く、セリフの意味を掴みにくくするだけでなく、各人物の所在や出来事までを曖昧にする演出だ。「戯曲のことは気にするな、オレ流の世界に集中しろ!」と演出家に命令されている気分。
三浦演出は「アングラのモノ真似だ」という説を聞いたことがある。表面的にはそうなのかもしれないが、ベクトルはまったく逆向きだ。かつてのアングラが戯曲に対して役者の肉体を復権させたのに対して、三浦はその逆のことをやろうとしている。戯曲が演出家の自己表現の素材にまで転落しているのに加えて、役者もまるで舞台美術の一部であるかのようだ。
行動範囲を極度に限定し、行動パターンも制限して貧しく様式化しているところが、役者の身体を装置的(機械)に見せている。そして、”三浦語”による台詞発声は、役者の身体と声を分離する。台詞は戯曲上の会話の相手(つまり舞台上のもう一人の役者)の方を向いて発せられるのではなく、観客の方に向けて発せられる。しかも、会話の間合いはアンサンブルを聴くかのように予定調和的にテンポの調整が共同で図られている。つまり、役者は、個々の存在として台詞を語ったり、相手の台詞に耳を傾けたりはしていない。役者たちは、演出家によってコントロールされたリズムとアーティキュレーションを分担して演奏する一組の舞台装置として、観客に提示されているのだ。
こう書くと、アングラ志向というより、ギリシャ悲劇志向なのかとも思うが、コロスの体現するのが共同体であるのに対して、三浦演出では、役者たちは彼のメディアとなるのだ。
それでは、ときおり噴出する痙攣的に激しい行動や極度に歪められた発声こそが、こうした演出家の圧政を突き破って出現する役者の身体だというのだろうか? そうではなさそうだ。それもまた、演出家の権力の圏内にあり、彼の自己表現にしか見えない。
しかし、戯曲の上演、役者の主体性、演劇のポリフォニーといった観点から、三浦演出を批判するのはそもそも不毛なのかもしれない。もっと別の観点から舞台を眺めれば、こういう公演が行われていること自体、とても今日的なのではないか。
例えば、なぜ安部聡子のような、何をやっても神経質なインテリ女性にしか見えない女優が、自分の資質とはまったくそぐわない役を引き受けて、こうしたパフォーマンスを演じているのか? 小林洋平だって、ワイルドな粉挽きというよりは、今どきの優しい若者にしか見えない。彼らの担うべき役と、彼らの身体の実際とのギャップは、熊倉敬聡が珍しいキノコ舞踊団の舞台を見て憂えた、エロスと向き合う術をしらない身体を想起させる(*)。
そうだ、そう考えた時、地点の舞台における演出家の圧政とは、私たちを去勢し、私たちの身体に浸透していく制度のカリカチュアに見えてくる。そして、アトリエという空間は、私たちがそこから出る方法を思いつけないでいる見えない密室のことだ。この舞台に出現しているのは、エロスの萎えた身体たちが、強引に神話的存在になろうとして、密室の中であがいている--そんな光景なのだ。
たちが悪いのは、演出家は役者の身体を支配すると同時に、役者が圧政に抗するための偽の回路も用意しているところ。それが、前述の「ときおり噴出する痙攣的に激しい行動や極度に歪められた発声」という演出手法であり、すべての登場人物が神話的な様相を帯びる戯曲を取り上げるという選択--「密室から出られないなら、密室を世界と思おう」という回路だ。とすれば、青年団リンク・地点の見所は、三浦演出のケレン味などではなく、青年団の役者たちがいかに彼の圧政に馴化されているか/されそこなっているか、という微妙な境界線にあるのではないかと思えてくる。80分。
(*)熊倉敬聡「珍しいキノコ舞踊団の『フリル(ミニ)ワイルド』を観て考えたこと」、『舞台芸術01』(京都造形芸術大学・舞台芸術研究センター)収録
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