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「虚の第一世代」の2つの目線(川村毅《クリオネ》)

軽い芝居、しょぼい芝居
ルー大柴が手塚とおるに言う。

どっか軽いんだよ、あんた。
2月にザ・スズナリで上演されたT factory《クリオネ》(*)の第二幕中盤で、のらりくらりとした態度を取り続ける首塔聖人(手塚)に映画監督・国仲誠一郎(ルー)が言うセリフだ。このセリフは、《トーキョー/不在/ハムレット》の冒頭で(そして終わりの方で)島村幸森がローソン前で贄田に言うセリフ、
しょぼいっすね。
を思い起こさせる。この二つが同じことを意味しているわけではないが、どちらも現在の日本社会に対する否定的なコメント(「軽い」は必ずしも否定的な形容詞ではないが、国仲は明らかに否定的な意味を込めて使っている)であると言ってよいと思う。ただ、川村毅宮沢章夫では目線が違う。

そしてこれらのコメントは、それぞれの芝居自体にも当てはまっている。《クリオネ》は「どっか軽」く、《トーキョー・・・》は「しょぼい」。結果としてそうなってしまったというより、必然的にそうなっているのだ。つまり《クリオネ》は「どっか軽」さを、《トーキョー・・・》は「しょぼ」さをそれ自体で観客に提出するべく作られているのだ。

2つの芝居の背後に、川村と宮沢の問題意識の重なり合うところがあるのは確かだ。《クリオネ》は「神なき国の夜」と題した連作の第一作として位置付けられているが、「神なき国」とは、《トーキョー・・・》でいうところの「秋人の不在」である。天皇制が不在化しつつも温存されている状況。これが、現在の日本社会へのコメントとなりうるような舞台を作る上での前提として共有されているように思う。そして、どちらの芝居でも、登場人物たちは物語を求めている。

また、郊外への関心という点でも重なるところがある。《トーキョー・・・》では北川辺町という郊外を舞台にし、そこと東京が見かけ上2つの極になっている。それに対して《クリオネ》では、白根町団地(*2)という高度成長期に開発された郊外の団地が主要な人物の原風景として登場し、国仲や真城、安西らが普段生活している場所--はっきりと名指されることはないが東京だ。安西は「都内」では凧を揚げる広い場所がないと言っている--が場所的な2つの極になっている。

さらに言えば、この2つの舞台は、本公演に至る過程にも類似点がある。どちらもワークインプログレスの形を採り、04年5月に実験的な公演からプロジェクトを始めている。《クリオネ》に関しては、第一幕第一稿をサイスタジオコモネBで、リーディング公演の後、約1カ月間に渡って毎週末、第三エロチカ、文学座、日大芸術学部演劇学科生の3チームが日替わりで繰り返し上演した。さらに同年12月に三軒茶屋シアタートラムで、第一幕(第三稿)のリーディング公演が本公演とほぼ同じ役者により行われている。また、《トーキョー・・・》同様に原作の書き下ろし小説が発表されている(「すばる」04年5月号掲載「夜」)。

宮沢章夫は1956年生まれで、川村毅は1959年生まれ。二人はともに50年代後半生まれで、高度経済成長期の最初に生まれた世代である。首塔聖人の言い方では、「虚の第一世代」ということになる。だから、問題意識が重なり合うことに不思議はない。


同世代を見る川村、子どもの世代をみる宮沢

しかし、二人の目線は違う。宮沢がごく若い役者たちを「こきつかって」(前々回のエントリー参照)自分の子どもの世代である20代の生態(とりわけ贄田、小西といったニートたち)を中心に据えたのに対して、川村はキャリアを積んできた役者を使って同世代を描いた(チラシには「東京に生きる40代の人々の痛みを描く」とある)。

共通点があるだけに、この違いが凄く面白い。私は宮沢の舞台を見るのは初めてだし、川村作品もそれほど見ていない。だから作者の比較は誰かほかの人にお願いしたいところだが、おそらく川村は作家的志向性が強く、宮沢はそうではないということからこの違いが生じているのだろう。

同時並行で進められたワークインプログレスの内容も、プロセスの本公演への寄与という点から見ると、川村の方は彼が戯曲を練り上げるために役立てられた面が大きいが、宮沢の方は戯曲は早々と出来上がっていて、それを素材として、役者たちを使っていろいろ実験してみて、パフォーマンスのアイデアを用意していったという風に見える。つまり、「子どもの世代/同世代」という目線の先の違いが、二人の戯曲に対する距離感の違いに重なっているのだ。

おそらく、《トーキョー・・・》の舞台が「しょぼい」のは宮沢が子どもの世代をしょぼい存在として捉えているからであり、《クリオネ》が「どっか軽い」のは川村が同世代の抱える問題をそのように捉えているからだなのだ。

《トーキョー・・・》の「しょぼ」さは、作品に持ち込まれた現実(北川辺などの風景映像、あるいは世田谷、歌舞伎町、上野、伊勢丹、ローソン、ココスなどの具体的な地名や店名)や、設定の一部を借りている「ハムレット」という物語の大きさに対して、舞台や役者たちの立ち上げようとしているイリュージョンの貧相さに由来している。そこにはズタズタになった物語の断片と、その断片と戯れるパフォーマンスしかない。こうしたものは、「しょぼ」くあるために召喚されたという見方も可能だろう。

一方、《クリオネ》は、一応は物語が成立しているかのようなイリュージョンを観客に与えてくれる。劇場に入ると、クリオネを暗示するとも思える星形模様の色褪せた壁紙が三方を囲んでいるだけのがらんと舞台。そして、メリーゴーランドを連想させるようなひなびた音楽。開演前から、ここでレトロなファンタジーを垣間見るのだと予感させるではないか。

そこへ、大きな体を縮こまらせるように振る舞う外村史郎(*3)が登場する。パニック障害でアトピーのシナリオライター・真城涼だ。昼ドラや火曜サスペンス劇場の脚本を書き、国仲と組んで人がどんどん死ぬVシネマの脚本を書いてきた。映画プロデューサーの安西栄一(笠木誠)はサングラスを掛け、誰にでも馴れ馴れしくていい加減な、いかにも業界人然とした男だ。「生ビールよりポッピー、煙草でなくシガリロ、銀座のクラブより中野のキャバクラを好む」ちょっとした無頼派気取り。田中角栄を尊敬し、半分人生を降りちゃったような男だ。笠木のうさんくさい演技がいい。国仲を演じるルー大柴に関しては説明不要だろう。やたら威勢はいいが、まさに「虚の第一世代」という言葉がぴったりきそうな男だ(ルー大柴は1954年生まれ)。

そして、彼らが組んで作った映画のモデルである、やはり同世代という設定の殺人犯(名前は与えられていない)。伊澤勉は、いつもどこを見ているのか判らないような捕らえどころのない、それだけに周囲を不安にさせる奇妙な男としてこれを演じる。国仲の恋人・白崎理香を演じる紅一点の宮本裕子の役は、ローマ帰りの外交官の娘。自尊心と独立心が程々に高く自分の弱さを認めることが出来ない。そして強烈な個性を放つ国仲の小学校時代の同級生・首塔聖人を演じる手塚とおる(但し、私は彼のエキセントリックな演技はあまり評価しない)。役者がしっかりと登場人物に存在感を与えている。そして登場人物のキャラが立っている。だから、彼らを見ているだけで十分に面白い。


「虚の第一世代」のテーマと彼らが共有するもの
ところが、そんな彼らが拠り所としているそれぞれの物語が空虚なものであることが次第に明らかになる。《トーキョー・・・》が物語の不可能性を前提条件とするところから始めたのに対して、《クリオネ》では、同じ問題が内在化され、その発見プロセスに焦点が置かれる。

トラウマを繰り返し語るうちに粉飾が進み、どこまでが真実か自分でも判らなくなってしまった真城は白崎に言う。

真実なんてどこにもない。なんだか今初めて気がついた。なぜあなたとぼくが国仲を必要としているのか。彼のどこを探しても真実がないからです。
これが彼らの追求すべきテーマであり、おそらく、彼らの世代固有のテーマでもある。子どもの世代の贄田たちはこんなことは気にしない。真実かどうかなんてどうでもいい。根拠なく「全部、秋人の仕業だ」と言い張ることで刹那的に物語が立ち上がりさえすればそれでいいのだ。まあ、「電車男」人気みたいなものかもしれない。

彼らは真実に依拠できないことに苛立っている。真城は言う。

おれは思った。すべてが宙ぶらりんだ。飲んでいる酒は苦くもなければ甘くもない。(中略)おれのなかのすべてが、死んでいるわけでも生きているわけでもないオヤジのように・・・
そうなってしまったのは、上の世代(全共闘世代)のように歴史に関われなかったからだと考えているからだろう。内ゲバで人を殺した「男」は言う。
服役中に感じていたのは塀の外で歴史が動いているということです。今でもその感覚が続いている。(中略)歴史は自分の外側でしか動いていない。

このような時代を掴むキャッチフレーズあるいはアフォリズムのようなセリフが川村の芝居にはよく飛び交う。これがまた彼の芝居の「なんか軽い」ところだ。しかし、《クリオネ》のような芝居を書いたのだから、彼はそれも承知の上でやっているのだと思う。この作品は彼の自己批判のようにも思える。

ところで、彼らが贄田たちと同様に「物語の不可能性」を生きているのだとしても、子どもの世代とは違って、彼らはまだ「大きな物語」の残響の中には居るのだと思う。これを2つの芝居の独白の構造の違いにみてみよう。

《クリオネ》においては、しばしば登場人物が独白によって、TVのドキュメント番組のナビゲーター(*4)のような役割をこなす。芝居の冒頭で独白する真城は、これから紹介するルポ映像の解説者のようにシーンの状況を語る。そして、映像がインサートされる代わりに白崎が舞台に登場して、二人は会話する。真城は会話の途中でも、自分の主観的な感想や解説を挟んだりする。同じような形式で真城は国仲との会話のシーンも紹介するが、その中ではさらに国仲がナビゲーターとなって首塔との出会いをインサートするという入れ子構造になっている。こうした構造は、彼らがかりそめであっても出来事にフレームを与えられる存在であることを前提にしている。

第二幕になると過去に登場したシーンがナビゲーター役を変えてもう一度語られる。例えば、真城の立場から語られた真城と国仲のバーでの会話が、今度は国仲によって語られる。いわゆる「藪の中」的アイデアなのだが、ここで興味深いのは、ナビゲーター役が変わってもシーンの印象はそれほど変わらないということだ。つまり、真城も国仲も白崎も個人的感慨のレベルではそれぞれに違うが、物事の認識の仕方、考え方はそう大して違わない。それは彼らが価値観のレベルで共有し合うものがあるからだと思う。これが《トーキョー・・・》の若者たちだったらこうはいかないだろう。ローソン前に残された贄田と小西と幸森が同じ場面をナビゲートしたら互いに全く違った印象のものになるのではないか。

さて、《トーキョー・・・》では、各シーンのなどに、さまざまな登場人物によって長い独白が行われる。それは、フォークナーっぽい意識の流れ的文体で書かれた原作「秋人の不在」の地の文をそのまま引用したようなセリフで、一人ひとりが外界と断絶したような意識を抱えて生きていることを感じさせる。

さらに言えば、その独白の文体は、誰の独白であっても、年齢や性別などの属性を無視して、同一性を感じさせるように書かれている。独白の語り手は、役を突き抜けて、この舞台全体を司っている神=作者ではないかと感じられる。無論、書き分けることくらいできたはずだが、宮沢はあえてそうしなかった。それは、彼がこれを若者たちを「こき使って」作ったことに対する矜持のようなものだと思う。あくまでも「これは、自分=宮沢から見た世界である」という刻印だ。贄田たちが自分たちの世代の問題を内在的に語る芝居は、宮沢の仕事ではなく、贄田たちと同世代の劇作家によって書かれる必要がある。


白根町団地へ向かった彼らはどう生きるのか

最後に、2つの芝居におけるトポスの役割を比較して、この小論を締めくくる。首塔の名付けるところの「虚の第一世代」の内面には、親の世代と自分の生まれ育った社会に対するアンビバレントな感情が渦巻いている。首塔は国仲に言う。

あなたには市民社会への憎悪がある。まさしく父親たちが築き上げたものですね。
国仲は言う。
適度に安定した生活を送ってると新興住宅地の光景が甦ってくるんだ。
それゆえ《クリオネ》では郊外が、郊外出身の中年によって、東京から振り返られる場所として位置付けられる。一度は捨ててきた場所ではあるが、自分たちの原点として再発見されるのだ。

これに対して、《トーキョー・・・》でのベクトルは、郊外から東京を志向しつつも、東京にはたどり着かず、トポスを失ったどこでもない場所へと拡散してしまうのだ。宮沢のWeb日記「富士日記」(2004年2月21日~29日分)を読めば明らかなように、彼は北川辺町にはなんの思い入れもない。戯曲が彼の舞台にとって材料でしかないように、北川辺町という場所も単なる材料でしかない。だから、トポスを喪失した場所として突き放して提示することができる。《トーキョー・・・》のラストで、音声とスクリーンの文字となって提示される贄田の独白は、故郷への憎悪を語っているが、およそ唐突で空虚に感じられるのはそのためだ(だいたい、フォークナーの小説『アブサロム、アブサロム!』のパロディだし)。

郊外に向ける川村の目線は宮沢のそれとは違う。トポスを喪失した場所であっても、そこで生まれ育った中年にとっては、自分のアイデンティティと切り離すことのできない特別な場所なのだ。たとえそこに真実がなくても、我々の世代はそれを我が物語としなければならない--これは、死体が埋まっていないと判っていても、穴を掘り続けるラストシーンが主張しているメッセージでもある。

青空に凧の揚がる幕切れは明るいが、空虚な明るさだ。それは、川村が、彼らは春になれば消えてしまうクリオネのように儚い存在だと捉えてしまったからだ。クリオネという現状認識はいい。では、彼らが本当に明るく生きるための可能性はどこにあるのか。そして、真城の指摘する「見えない戦争」に対して、彼ら--いや、私たち全員はどう対処していったらいいのか。連作二作目以降では、その辺までつっこんで欲しい。


(*)2005年2月3日~13日上演
作・演出:川村毅
出演:手塚とおる、宮本裕子、外村史郎(文学座)、伊澤勉、笠木誠、ルー大柴
美術:島次郎、照明:大野道乃、音響:原島正治、衣装:伊藤かよみ
製作:平井佳子、株式会社ティーファクトリー

(*2)「白根町団地」は「都内の会社に通う会社員たちのためのベッドタウン」として設定されている。「白根町団地」をgoogleやYahoo!、gooなどで検索してみてもなにも検索にひっかかってこない。「白根団地」で調べると、山梨県南アルプス市に1965年に作られた平屋の団地、横浜市旭区白根に1964年から分譲の始まった団地(これはかなり大きいらしい)、それに直接的なデータはないが茨城県取手市にあるらしいものの3箇所である。作品の終盤で国仲らは東海道線のグリーン車で行くとあるから、検索結果でこの交通手段と唯一矛盾しないのは横浜の白根団地ということになる。横浜駅まで東海道線に乗って、それから相鉄線に乗り換えて、鶴ヶ峰駅下車だ。川村毅が横浜育ちであることを考えると、ここがモデルになっている可能性はありそうだ。

(*3)私の見た初日(2月3日)、外村はセリフを噛みまくっていた。未確認だが、何かアクシデントがあったようだ。

(*4)例えば、NHK特集でのスタジオで語るアナウンサー、あるいはテレビ東京「ガイアの夜明け」での役所広司みたいな存在。あまりぴったりした例ではないけれど。

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村人のダンスと北川辺町民のダンス(松本修《城》)

松本版《城》の提出する構図
《トーキョー/不在/ハムレット》と同じ頃、新国立劇場小劇場で上演された《城》(原作:カフカ、構成・演出:松本修)(*)は、途中20分の休憩を挟んで3時間45分という長丁場の芝居だった。

主人公である測量技士Kは、陽気で図々しい男である。次々と不可解な状況に巻き込まれ、事態は悪くなる一方のように思われるにも関わらず、彼の声を聞いていると、それほど滅入っているようには感じられない。そもそも、彼が本当のところ何を望んでいるのか良くわからないつかみ所のなさがある--このようなKのイメージは、Kを演じた田中哲司の功績だと思う。しかし、それは演出から判断されるこの上演の構図にはうまくフィットしていなかった。

この乖離は、制作プロセスに起因するものなのかもしれない。台本なしでカフカの小説を基に、演出家が役者たちとワークショップを行いながら、一緒に作り上げていったという。細かなところにはワークショップの場から生まれたアイデアがいろいろと生かされているのだろうが、そのような作り方をしながら、結果としてひとつのスタイルにまとまってしまうことに不満を覚える。なにか凄くもったいないことをしているような気がするのだ。まとまってしまう前のワークショップでの試演を見た方が、本公演より面白かったのではないか、と想像する。

それはともかく、田中のKを評価する理由。私は原作の小説を読んでいないのだが、Kは相当の食わせ物であることが舞台に取り上げられたエピソードからも判る。彼は城の伯爵から依頼されてきた測量技師だと名乗るが、道具はひとつも持参していない。故郷に妻子が居るから仕事を終えてさっさと帰りたいと言いながら、唐突にフリーダと結婚する。いった彼が村にやってきた真の目的は何なのか? 彼は不条理な状況に振り回される犠牲者などではない。むしろ、彼自身が不条理そのものであり、それはその場その場の欲望に従う人間を俯瞰した時に見られる不条理さに似ていると思った。

しかし、演出はKをそのようには仕立てていない。シーンの区切りごとに、舞台上部に設置されたスクリーンに、カフカのテキストから抽出された人生を諦観するようなアフォリズムが表示され、黒いコートに身を包み、片手に杖をもった男がスポットライトによって浮かびあがる。つまりこの男Kを、いわゆる「カフカ的不条理」を体験する者として見よ、と観客を誘っているようにしか思えない。

そして、村人たちがKに対置される。私は最後列から見ていたのでよくわからなかったのだが、「村人のほとんどは下まぶたに墨を入れ肌を褐色に塗ってKと相対する側の不気味な印象を作っ」(*2)ていたのだそうだ。そして、井手茂太の振付による村人たちのダンスが、村人たちを孤独なKをたぶらかす集合的な存在として印象づける(フリーダも所詮はその一人だ)。あたかも、彼らは皆、Kに不条理を味わわせるための、見えない権力によって用意されたひとつの装置であるかのように。

ここで舞台の構造にも触れておこう。舞台は3階建てになっていて、劇中、役者たちは階段で3つの階層を往き来する。その階層構造はある時は家の断面であり、またある時は起伏のある村の地形を表してもいるのだが、舞台が進行するに連れて、主舞台である1階=(作品世界における)「現実層」/2階以上=「現実層」を見下ろす超越的な層、という構図が出現する。深く被った帽子で目の辺りを隠し、黒いコートに身を包んだ男たちが2階3階に登場し、じっと1階を見下ろしている場面がそれだ。つまり城からの視線が表現されているのだ。

こうした「城」の解釈--受難者としてのK、集合的存在としての村人たち、超越的な権力とその視線--は、私にはたまらなく退屈だった。あまりの退屈さに、公演中、何度も居眠りをしてしまったほどだ。こうした読みが暗に示す城の権力は何によって保証されているのか。村人たちを一括りにする視線は、実際のところ、誰のものなのか。そうした問いを立ててみれば、このような世界観にリアリティのないことが理解されるだろう。


《トーキョー/不在/ハムレット》との比較
例えば、こう考えた方がまだ今日的であると思う--Kは、偽りの受注や結婚などによって契約を成立させることで、村というシステムに侵入し、組み込まれようとするとするウィルスである。ウィルスは必ずしも排除すべき存在ではない。システムを一時的に混乱させはするが、システム内に隠されていたものを明るみに出す触媒となる可能性をもっている(少なくとも、Kはそれまで隠れていた情報システムの不備の露呈させたのではないか。日本企業の慣習に対するホリエモンみたいなものか)。重要な点は、村というシステムがどうやって成立しているかで、それは村人たちが城という「大きな物語」を共有することによってである。ここで、「本当にそれは共有されているのか?」という疑問が生じる。実は、一人ひとりがそう思っているだけで城に実体はなく、各人の抱いている城幻想も同一ではない。

こんな読みを、カフカの小説《城》を読んでいない上、その一般的な解釈も知らない自分が書くのは勇み足かもしれないが、舞台に示されたエピソード群から、松本演出に逆らって諸要素を取り出せば、こうした解釈の舞台が作れると思った。そして、こうした別の角度からの読みを持ち出したのは、もうお気づきかと思うが、「秋人の不在」=「明仁の不在」という符丁を隠し持つ《トーキョー/不在/ハムレット》との類似性と差異を浮き上がらせたいからである。

これまで松本版《城》について見てきた点を、北川辺町の人々(無論、作品上の。実在のではない)について見てみよう。彼らを一括りにする視線は、《トーキョー・・・》には存在しない(強いて言えば、松田鶏介の会社の上司・加藤の野次馬の視線だろうか)。そもそも、北川辺町の人々を他の人々から際立たせるようなトポスなど成立しない、という認識の下にこの舞台は創られているのだ。余談になるが、そうした視線を欲している者たちなら存在する。町の権力者、牟礼夏郎治(クローディアスと相似形の人物)である。彼は、北川辺を「東洋のベニス」などと賛美するが、まあ、これは権力者のありきたりな手法だ。

北川辺町には、そこに住む人々を見下ろすような超越的権力の視線も存在しない。代わりに存在するのは相互監視の視線だ。夏郎治の指示で倉津と須田が贄田を監視し、贄田は小西を暴力的な管理下に置き、小西は島村巻子を監視する。こうした監視はひたすらそれぞれの欲望のために存在しているだけの極めて世俗的なものだ(*3)。

また、《トーキョー・・・》の舞台ではコンビニの監視カメラ映像が意味ありげに挿入されている。その映像はスクリーンセイバー(画面を水槽に見立てて、その中で泳ぐ金魚が増えていく)によって掻き消されていったのだった。すなわち、この監視システムが放置されていることを示す。何か支障が発生した時のみ、監視映像は事後的に見られるのだが、そうでない限りは不在と見なされる監視カメラ(今やあまりにも日常的に偏在し、私たちは意識もしなくなりつつあるが、しかし、それは本当のところ、善良な市民なら忘れていい存在というわけではあるまい)。監視社会と言われる私たちの住む社会の監視の特質は、《城》にみられるような統治者による超越的な監視ではなく、コンビニの監視カメラに象徴されるように、監視主体が民間に拡散していき、社会生活のさまざまな局面にネットワーク化されてきている点にあるのだ(*4)。

私はこのような松本版《城》と《トーキョー・・・》の差異が、それぞれに組み込まれたダンスの違いに色濃く反映されていると思う。《城》においては、リズムと動きのスタイルが踊る村人たちの間でしっかりと共有されている。そして、身体が動きに対してよく訓練されている(ダンサーとしてということではない)。身体が動きを覚えているから、その覚えている感覚に身を委ねている面がある(つまり、いわゆる”ダンス”になっている)。そして、ダンスの舞台上の役割は、同じ権力下にあって一括りにできる存在として村人たちを提出することだ。このダンスが退屈に思えたのは振付家のせいではなく(振り自体は退屈ではなかった)、そうしたダンスの使い方をした演出家の責任である。

一方、《トーキョー・・・》では、リズムはバラバラだし、スタイルがはっきりと共有されているわけでもない。しかも、前回のエントリーでも書いたが、身体が動きに逆らっている。大急ぎでこなさなければいけない行為がたくさんあって、それらを頭で指示しながら無理矢理身体を動かしているといった感じがする。・・・こう書いてみると、ますます今日、日常に溢れている身体を示唆するものとして感じられてきた。身体は調教されていないが、脳が調教されているということだろうか。

このニブロールの身体について、まだ十分に言い当てていないように感じるが、前回よりは少し近づいた気もする。それにしても、こうしてみると、演劇にダンスを取り入れた近年の事例の中では、《トーキョー・・・》におけるニブロールのコラボは出色のものではないだろうか(それほど多数の上演をフォローしていない私が言うのもはばかれるが)。


(*)2005年1月14日~30日上演
原作:フランツ・カフカ、池内紀訳「カフカ小説全集(3)」より 白水社刊
構成・演出:松本 修
美術:島 次郎 、照明:沢田祐二、音楽:斎藤ネコ、音響:市来邦比古
衣裳:太田雅公 、振付:井手茂太
文芸助手:宮坂野々 、演出助手:川畑秀樹、舞台監督:米倉幸雄
芸術監督:栗山民也 、主催:新国立劇場

(*2)中村隆一郎「私の演劇時評」より

(*3)この点に関連して、小説「秋人の不在」で気になるのは、語り手の視線だ。正体不明の語り手が登場人物をねっとりとした視線で描写する。この語り手は、物語を読者に伝えることにはあまり熱心ではなく、むしろ自分の欲望に忠実であるようだ。事件の把握という価値観からすれば重要と思われることは欠落させ、どうでもいいと思われるところを詳細に語ったりする。たとえば爆破されたスナック「銀世界」の現場に向かう杜季子を描写する以下の下り。

窓を閉めて自室に戻ってパジャマを脱ぐと、下着をつけていない上半身には形のいい乳房があらわれになり、その膨らみがふわっと揺れるのを手で押さえゆっくりとした動きでブラジャーをつけ背中に手を回してホックを留め、その上に白いTシャツを着たが、そしてジーンズに水色のサンダルを履いた姿で家を出たとき、自分でも意識していなかったのは、いつのまにか小走りになっていたことだ。(『文學界』8月号p.80下段-81上段)

語り手の視線の問題は、この小説への影響が語られる阿部和重の小説《シンセミア》とも共有する問題だと思う。それについては去年書いた

(*4)従って、新国立劇場の主催で、カフカがこのように解釈されて上演されることに、アイロニーが感じられる。ただ、それは偶然の産物だろう。主催サイドが影響を及ぼして、《未来世紀ブラジル》的な管理社会のビジョンになるようにしむけたとは考えにくい。その保守的な体質が自ずから、このような解釈の上演を呼び寄せたと見るべきだろう。そう思うと、これはやはり皮肉なことである。

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メディアミックス/若者/ニブロール(《トーキョー/不在/ハムレット》)

メディアミックス的興行
今年1月9~23日に三軒茶屋シアタートラムで上演された遊園地再生事業団《トーキョー/不在/ハムレット》は、前年の5月のリーディングに始まり、原作の小説発表(『文學界』8月号収録「秋人の不在」)、関連映像作品の公開(7月、《be found dead》)、準備公演(10月)、実験公演(9月)と上演や作品発表がワークインプログレス的に8カ月間も続くプロジェクトだ。オマケにWebでは宮沢章夫が「不在日記」と題して制作日誌的な記述をリアルタイム(たまに閲覧する程度だが、彼のWeb日記にタイムラグはそれほどない)で発表し続けて、作品の舞台となり重要な意味を持つ埼玉県北川辺町を初めて訪れた時の様子などが克明に綴られている。

このうち、私が事前に観た公演は準備公演(麻布die pratze,04年10月15日)だ。スクリーン以外に舞台装置は何もなく、時系列をシャッフルした断片的なシーンの連鎖で構成されていて、誰が誰なのか、結局どういう物語なのか、なんだかほとんど判らなかった。とはいえ、そんな理解を必要としない舞台なのだろうと感じた。

特徴的なのは、同一のシーンがパフォーマンスレベルでの変形・編集が施されて複数回演じられるのだ。例えば、逆廻し(台詞は文節単位で逆に言っていく)に演じてみたり、台詞だけを役者間で交換して、演技と台詞を乖離させてみたり、登場人物を一人ずつ削っていきながらシーンを繰り返したり、演技だけシーンとは関係のないコント的なシチュエーションを演じさせながら会話させてみたり・・・といった具合だ。

全体的な把握が出来ない中で、こうした試みばかりが目立つので、こうした試みを見せるためにやっている舞台という印象が強い。「準備公演だから」という割り切りで、アイデアだけいろいろポンポン出して、「これ面白いかも?」みたいなノリでやっているのだろうと思った。しかしその割には、逆廻しのシーンなんて、演技もビデオの巻き戻し再生みたいで、「よくここまで仕上げたなあ!」と役者たちの頑張りに感心させられた。そんなわけで、見ていてそれなり面白かったのだけれど、全体として宮沢章夫がなにを目指しているのかは判らず、だから、自分の頭で考える代わりに若い役者をこき使っていろいろ試して遊んでいる、という風にしか見えなかった(*)。

「ま、準備だからな。本公演は違うだろう。話が複雑そうだから事前に原作を読んでおこう」と思って、次に「秋人の不在」(単行本として出版される際に《不在》と改題された)を読んだ。お陰で、登場人物の関係がしっかり整理できたし、ハムレットの物語がどう変奏されているか、また、直接関係のない部分(島森家の人々など)がかなり含まれていることがよく判った。さらにWebの「不在日記」を読むと、小説の終盤(本公演の終盤でもある)に登場する、ライブラリーに車でやってくる四人組は、初めて北川辺町を訪れた宮沢たち自身の行動がそのまま引用されていることに気づく。DVDを買って《be found dead》を見たなら、さらに新たなことに気がついたのかも知れない。要するにこれは一種のメディアミックス商法だ。実際、本公演を見て、不安に駆られてロビーで販売しているDVDやら小説やら戯曲掲載誌やらを買い求めた人を知っている。

私はこの手法自体は否定しない。謎解きの消費は人々の流儀であり、彼らは自ら望んでそうするのだ。でも、このプロジェクトの場合、相当意地が悪いと思わざるを得ない。だって、本公演を見たら、そのスタンスは準備公演のそれと基本的には変わっておらず、宮沢が物語消費的な心理に対して「そんなもの無効だ!」という考えのもとにこのプロジェクトを創っていることが疑いようがなくなったからだ。

物語からパフォーマンスへ
物語の断片群を与え、一方で複数メディアでヒントを用意するという点で、プロジェクト自体が物語消費を誘うようにできているわけだが、作品の登場人物たちも物語にしがみつこうとしている人々である。もっとも意識的なのは贄田で、行方をくらました秋人を核に、町で起きている事件を彼の仕業だと主張することで物語を形成しようとしている。もっとも無意識的なのは杜李子で、隠れキリシタンの言葉をつぶやくことで、不安のあまり漂ってしまう自分の心にどうにか錨を降ろそうとする。牟礼の家系にこだわる夏郎治、小泉首相に手紙を書く中地らはその中間に位置する。

人は物語に縛られることで安定する。しかしそのためには物語が共同体に根を下ろし、その構成員によって共有されていることが大切である。しかし、今日の消費社会ではこういった明瞭な形で人を生涯にわたって縛る共同体が存在しない。そのため物語に対する飢餓感が生まれてくる--と指摘したのは大塚英志だったが、北川辺町の人々はまさにそういった心理状況にあるといっていいだろう。もちろん登場人物たちに限らず、私自身も含めて、大塚の指摘と無縁である人は少ないであろうから、私が言いたいのは、この舞台は、そうした状況に観客の注意がいくように仕組まれている、ということだ。

本公演では、舞台を前後に分断する垣根が導入され、垣根の向こう側はスリットから覗けるようになっている。上手側にはローソンを思わせるサインが掲げられている。シーン構成の手法は準備公演に近く、そこに垣根の向こうの演技を撮影してスクリーンに投影するという実験公演の手法を組み込み、さらに北川辺町の映像やニブロールの映像作家・高橋啓祐のアニメーションが盛り込まれている。これまで発表してきた要素の集大成になっているわけだ。おそらくプロジェクトをずっと追いかけてきた観客にはお祭り的な感慨を与える公演となったのであろう。

そうではない私にとって、本公演の観劇は、物語がボロボロに寸断され、その断片すらも無意味化されて、舞台を進行させる駆動力としてシーン単位でも使えなくなっていくありさまを目撃する体験であった。贄田、杜李子といった設定上の人格は途中から色褪せていき、代わりにそれらを演じている役者たちが前景化されていった。

とはいえ、素の役者たちがそこに現れるわけではなく、あくまでも、舞台上の役割(配役ではない)を担って行動する彼らである。彼らを律しているのは、シーンごとの暫定的なルールだ。大河内浩は、松田貞治と夏郎治の一人二役を演じているのだが、口を歪ませるかどうかだけで、この二役を区別するというコントみたいなことをやっている。二人の独立した人間をそれぞれに表現することなどここでは問題とされていないわけで、要は「このシーンでは口を歪ませてしゃべる/別のシーンではそうしない」というルールに従う大河内がいるだけだ。

前に紹介した準備公演でのパフォーマンスレベルでの変形・編集が本公演でも多数採用されており、こうした事態をより明確にする。一番過激なのは矢内原美邦の振付で、役者たちが彼女の振付を引き受ける時、もう変形・編集というレベルを超えて、彼らは配役とはまったく関係のない規制の下に行動している。

私はニブロールの公演が立ち上げようとしている世界に馴染みにくさを感じてきたが(よってそれほど観てもいないのだが)、今回のようなコンテキストが与えられると、少しだけ彼女のやっていることに面白さを感じられたような気がした。役者=パフォーマーたちの動きを見ていると、遂行している動きに対して身体が慣らされていないと感じる。彼らは自身の意志で動いているようで、身体はその動きを拒んでいる。動きを自分のものとしないままに強制されて動いている身体が見えてくる。それがチェルフィッチュの一見だらしない身体と裏表の関係にあるのではないか、という直感が働くのだが、まだよく判らない。

ナビゲーター岩崎正寛
そんな振付付きのシーンで、中地・加藤役の岩崎正寛が「俺にコンテンポラリーは無理だ」と叫ぶ。自己言及的・楽屋落ち的(「コンテンポラリー」とはコンテンポラリー・ダンスのことで、それは振付で参加している矢内原のやっているダンスのことだ、という理解が必要)発言で笑いを取りにいっているのだが、準備公演では起きた客席の笑いも本公演の舞台に散乱する過剰な情報の中にあっては、滑るしかなかった。それはともかく、ここで岩崎は(それすらも演出であるとはいえ)岩崎自身としての発言をしたのであり、いわば底を打ってみせたのだ。舞台の冒頭では、中地として物語を駆動させていた状態からどんどん物語の解体が進んで、配役の褪色していき、ついにここで岩崎自身が出てきたというわけだ。

岩崎は《トーキョー/不在/ハムレット》のナビゲーター役である。彼の演じる中地は舞台の前半で、小泉首相に宛てて、北川辺町での事件の解明を訴える手紙を読みながら書くのだが、その内容によって、観客は出来事の概要をかろうじて把握することが出来、物語への興味を強化することになる。

中地という人間は、贄田たちと共に幽霊を見たとは言え、事件の渦中には居ない。いわば、運良く事件に間接的に関わることの出来た野次馬である。そんな幸運は滅多にないから、自分の身近に発生した事件との距離間も掴めないし、権力との距離感も掴めない人間だ。

こうして観客をまず混沌状況から物語へと一旦誘った岩崎は、続いて舞台上で進行する物語の解体と並行して、観客を物語の周縁へと連れ出していく。岩崎が演じる第二の人物、松田鶏介の会社の上司・加藤唯哉は、最も物語から遠くにいる役だろう。ガートルードに相当する牟礼真由美すらキャスティングされていないというのに、なぜ加藤が登場し、鶏介と会話するシーンがあるのか。それは、加藤が、事件の外側にいる人間の代表だからではないか。加藤は物語のために登場したのではなく、事件(スナック「銀世界」爆破事件)の外にいる人間の反応を見せるために用意されたのだ。マスメディアで事件を知って、外部から好奇心を募らせる人間。ここまではかろうじて物語の地場の圏内だ。

物語からパフォーマンスへ、舞台を進行させる駆動力の引き継ぎが進行する過程では、観客の欲求は物語への同化から野次馬的なポジションへと移っていく。それは、まさしく加藤に代表されるポジションである。スクリーンの映像を観ながら、舞台のスリットの向こうで進行する芝居を覗く時、観客は、茶の間で怪しげな事件のニュースをTVで観ながら、現場で当事者たちの間で生じている出来事をあれこれ妄想する日常と同じポジションにいつの間にか座らされていることに気づくのだ。

パフォーマンスへの引き継ぎが完了する頃には、そうしたポジションも解体されてしまう。あとは、この難しい上演をやり遂げた若い役者たちがそこに居て、観客は、彼ら一人ひとりが配役名と俳優名のテロップ付きで紹介されていくスクリーンを観ながら拍手を送るのだ。(了)


(*)本公演のプログラムに掲載された宮沢と青山真治の対談を読んだら、青山が次のように気を遣いながら言う下りがあって、「その通り!」と激しく頷いたものだ。

本公演の一連の流れっていうのは、最終的には大河内さんにも出演してもらうわけだけど、事情を知らない人が見ると、「これは宮沢が自分のためだけに若いやつをこき使ってやってる」って思うというか、「なんか随分な話だな!」って思われるかもしれないわけじゃないですか。

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