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メディアミックス/若者/ニブロール(《トーキョー/不在/ハムレット》)

メディアミックス的興行
今年1月9~23日に三軒茶屋シアタートラムで上演された遊園地再生事業団《トーキョー/不在/ハムレット》は、前年の5月のリーディングに始まり、原作の小説発表(『文學界』8月号収録「秋人の不在」)、関連映像作品の公開(7月、《be found dead》)、準備公演(10月)、実験公演(9月)と上演や作品発表がワークインプログレス的に8カ月間も続くプロジェクトだ。オマケにWebでは宮沢章夫が「不在日記」と題して制作日誌的な記述をリアルタイム(たまに閲覧する程度だが、彼のWeb日記にタイムラグはそれほどない)で発表し続けて、作品の舞台となり重要な意味を持つ埼玉県北川辺町を初めて訪れた時の様子などが克明に綴られている。

このうち、私が事前に観た公演は準備公演(麻布die pratze,04年10月15日)だ。スクリーン以外に舞台装置は何もなく、時系列をシャッフルした断片的なシーンの連鎖で構成されていて、誰が誰なのか、結局どういう物語なのか、なんだかほとんど判らなかった。とはいえ、そんな理解を必要としない舞台なのだろうと感じた。

特徴的なのは、同一のシーンがパフォーマンスレベルでの変形・編集が施されて複数回演じられるのだ。例えば、逆廻し(台詞は文節単位で逆に言っていく)に演じてみたり、台詞だけを役者間で交換して、演技と台詞を乖離させてみたり、登場人物を一人ずつ削っていきながらシーンを繰り返したり、演技だけシーンとは関係のないコント的なシチュエーションを演じさせながら会話させてみたり・・・といった具合だ。

全体的な把握が出来ない中で、こうした試みばかりが目立つので、こうした試みを見せるためにやっている舞台という印象が強い。「準備公演だから」という割り切りで、アイデアだけいろいろポンポン出して、「これ面白いかも?」みたいなノリでやっているのだろうと思った。しかしその割には、逆廻しのシーンなんて、演技もビデオの巻き戻し再生みたいで、「よくここまで仕上げたなあ!」と役者たちの頑張りに感心させられた。そんなわけで、見ていてそれなり面白かったのだけれど、全体として宮沢章夫がなにを目指しているのかは判らず、だから、自分の頭で考える代わりに若い役者をこき使っていろいろ試して遊んでいる、という風にしか見えなかった(*)。

「ま、準備だからな。本公演は違うだろう。話が複雑そうだから事前に原作を読んでおこう」と思って、次に「秋人の不在」(単行本として出版される際に《不在》と改題された)を読んだ。お陰で、登場人物の関係がしっかり整理できたし、ハムレットの物語がどう変奏されているか、また、直接関係のない部分(島森家の人々など)がかなり含まれていることがよく判った。さらにWebの「不在日記」を読むと、小説の終盤(本公演の終盤でもある)に登場する、ライブラリーに車でやってくる四人組は、初めて北川辺町を訪れた宮沢たち自身の行動がそのまま引用されていることに気づく。DVDを買って《be found dead》を見たなら、さらに新たなことに気がついたのかも知れない。要するにこれは一種のメディアミックス商法だ。実際、本公演を見て、不安に駆られてロビーで販売しているDVDやら小説やら戯曲掲載誌やらを買い求めた人を知っている。

私はこの手法自体は否定しない。謎解きの消費は人々の流儀であり、彼らは自ら望んでそうするのだ。でも、このプロジェクトの場合、相当意地が悪いと思わざるを得ない。だって、本公演を見たら、そのスタンスは準備公演のそれと基本的には変わっておらず、宮沢が物語消費的な心理に対して「そんなもの無効だ!」という考えのもとにこのプロジェクトを創っていることが疑いようがなくなったからだ。

物語からパフォーマンスへ
物語の断片群を与え、一方で複数メディアでヒントを用意するという点で、プロジェクト自体が物語消費を誘うようにできているわけだが、作品の登場人物たちも物語にしがみつこうとしている人々である。もっとも意識的なのは贄田で、行方をくらました秋人を核に、町で起きている事件を彼の仕業だと主張することで物語を形成しようとしている。もっとも無意識的なのは杜李子で、隠れキリシタンの言葉をつぶやくことで、不安のあまり漂ってしまう自分の心にどうにか錨を降ろそうとする。牟礼の家系にこだわる夏郎治、小泉首相に手紙を書く中地らはその中間に位置する。

人は物語に縛られることで安定する。しかしそのためには物語が共同体に根を下ろし、その構成員によって共有されていることが大切である。しかし、今日の消費社会ではこういった明瞭な形で人を生涯にわたって縛る共同体が存在しない。そのため物語に対する飢餓感が生まれてくる--と指摘したのは大塚英志だったが、北川辺町の人々はまさにそういった心理状況にあるといっていいだろう。もちろん登場人物たちに限らず、私自身も含めて、大塚の指摘と無縁である人は少ないであろうから、私が言いたいのは、この舞台は、そうした状況に観客の注意がいくように仕組まれている、ということだ。

本公演では、舞台を前後に分断する垣根が導入され、垣根の向こう側はスリットから覗けるようになっている。上手側にはローソンを思わせるサインが掲げられている。シーン構成の手法は準備公演に近く、そこに垣根の向こうの演技を撮影してスクリーンに投影するという実験公演の手法を組み込み、さらに北川辺町の映像やニブロールの映像作家・高橋啓祐のアニメーションが盛り込まれている。これまで発表してきた要素の集大成になっているわけだ。おそらくプロジェクトをずっと追いかけてきた観客にはお祭り的な感慨を与える公演となったのであろう。

そうではない私にとって、本公演の観劇は、物語がボロボロに寸断され、その断片すらも無意味化されて、舞台を進行させる駆動力としてシーン単位でも使えなくなっていくありさまを目撃する体験であった。贄田、杜李子といった設定上の人格は途中から色褪せていき、代わりにそれらを演じている役者たちが前景化されていった。

とはいえ、素の役者たちがそこに現れるわけではなく、あくまでも、舞台上の役割(配役ではない)を担って行動する彼らである。彼らを律しているのは、シーンごとの暫定的なルールだ。大河内浩は、松田貞治と夏郎治の一人二役を演じているのだが、口を歪ませるかどうかだけで、この二役を区別するというコントみたいなことをやっている。二人の独立した人間をそれぞれに表現することなどここでは問題とされていないわけで、要は「このシーンでは口を歪ませてしゃべる/別のシーンではそうしない」というルールに従う大河内がいるだけだ。

前に紹介した準備公演でのパフォーマンスレベルでの変形・編集が本公演でも多数採用されており、こうした事態をより明確にする。一番過激なのは矢内原美邦の振付で、役者たちが彼女の振付を引き受ける時、もう変形・編集というレベルを超えて、彼らは配役とはまったく関係のない規制の下に行動している。

私はニブロールの公演が立ち上げようとしている世界に馴染みにくさを感じてきたが(よってそれほど観てもいないのだが)、今回のようなコンテキストが与えられると、少しだけ彼女のやっていることに面白さを感じられたような気がした。役者=パフォーマーたちの動きを見ていると、遂行している動きに対して身体が慣らされていないと感じる。彼らは自身の意志で動いているようで、身体はその動きを拒んでいる。動きを自分のものとしないままに強制されて動いている身体が見えてくる。それがチェルフィッチュの一見だらしない身体と裏表の関係にあるのではないか、という直感が働くのだが、まだよく判らない。

ナビゲーター岩崎正寛
そんな振付付きのシーンで、中地・加藤役の岩崎正寛が「俺にコンテンポラリーは無理だ」と叫ぶ。自己言及的・楽屋落ち的(「コンテンポラリー」とはコンテンポラリー・ダンスのことで、それは振付で参加している矢内原のやっているダンスのことだ、という理解が必要)発言で笑いを取りにいっているのだが、準備公演では起きた客席の笑いも本公演の舞台に散乱する過剰な情報の中にあっては、滑るしかなかった。それはともかく、ここで岩崎は(それすらも演出であるとはいえ)岩崎自身としての発言をしたのであり、いわば底を打ってみせたのだ。舞台の冒頭では、中地として物語を駆動させていた状態からどんどん物語の解体が進んで、配役の褪色していき、ついにここで岩崎自身が出てきたというわけだ。

岩崎は《トーキョー/不在/ハムレット》のナビゲーター役である。彼の演じる中地は舞台の前半で、小泉首相に宛てて、北川辺町での事件の解明を訴える手紙を読みながら書くのだが、その内容によって、観客は出来事の概要をかろうじて把握することが出来、物語への興味を強化することになる。

中地という人間は、贄田たちと共に幽霊を見たとは言え、事件の渦中には居ない。いわば、運良く事件に間接的に関わることの出来た野次馬である。そんな幸運は滅多にないから、自分の身近に発生した事件との距離間も掴めないし、権力との距離感も掴めない人間だ。

こうして観客をまず混沌状況から物語へと一旦誘った岩崎は、続いて舞台上で進行する物語の解体と並行して、観客を物語の周縁へと連れ出していく。岩崎が演じる第二の人物、松田鶏介の会社の上司・加藤唯哉は、最も物語から遠くにいる役だろう。ガートルードに相当する牟礼真由美すらキャスティングされていないというのに、なぜ加藤が登場し、鶏介と会話するシーンがあるのか。それは、加藤が、事件の外側にいる人間の代表だからではないか。加藤は物語のために登場したのではなく、事件(スナック「銀世界」爆破事件)の外にいる人間の反応を見せるために用意されたのだ。マスメディアで事件を知って、外部から好奇心を募らせる人間。ここまではかろうじて物語の地場の圏内だ。

物語からパフォーマンスへ、舞台を進行させる駆動力の引き継ぎが進行する過程では、観客の欲求は物語への同化から野次馬的なポジションへと移っていく。それは、まさしく加藤に代表されるポジションである。スクリーンの映像を観ながら、舞台のスリットの向こうで進行する芝居を覗く時、観客は、茶の間で怪しげな事件のニュースをTVで観ながら、現場で当事者たちの間で生じている出来事をあれこれ妄想する日常と同じポジションにいつの間にか座らされていることに気づくのだ。

パフォーマンスへの引き継ぎが完了する頃には、そうしたポジションも解体されてしまう。あとは、この難しい上演をやり遂げた若い役者たちがそこに居て、観客は、彼ら一人ひとりが配役名と俳優名のテロップ付きで紹介されていくスクリーンを観ながら拍手を送るのだ。(了)


(*)本公演のプログラムに掲載された宮沢と青山真治の対談を読んだら、青山が次のように気を遣いながら言う下りがあって、「その通り!」と激しく頷いたものだ。

本公演の一連の流れっていうのは、最終的には大河内さんにも出演してもらうわけだけど、事情を知らない人が見ると、「これは宮沢が自分のためだけに若いやつをこき使ってやってる」って思うというか、「なんか随分な話だな!」って思われるかもしれないわけじゃないですか。

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Comments

手塚さん、情報有り難うございます。「舞台芸術8」出ましたか。本屋に行く暇がないのでネットで注文してみます。「物語からパフォーマンスへ」なんて小見出しを付けた瞬間、あ、これは内野儀『メロドラマからパフォーマンスへ』に似すぎてると思ったわけで、彼の著書から影響を受けてしまっている可能性はありそう。

先週末(6月4日)は、「NHKニュースおはよう日本」首都圏版の「すてき旅」で北川辺町が取り上げられてました。「こだわりのトマトの産地を訪ねて」と題して、トマト農家二十数軒が協力し合って美味しいトマト作りに取り組んでいるとか、地元の小学校では給食にとれたてのトマトが出るとか、そんな話題でした。当たり前なんですけれど、スクリーンに映った北川辺町の人たち--話し合う青年農業家の人たちとか、トマト料理を楽しむ大家族とか、元気な小学生たちとか--が与えるイメージは、「トーキョー/不在/ハムレット」の鬱屈して孤独な北川辺町の人々と似てもにつかないものでした。「北川辺町」という固有名が登場する意味は、あの演劇においてなんなのだろうか? それにしても、最後にアナウンサーが地図を表示して行き方を紹介していたのですが、今回はスポットとしては農家ぐらいしか取り上げていなかったので、視聴者が続々と農家に押し寄せてきたら大変だぞ。

Posted by: ine | June 07, 2005 at 10:28

「舞台芸術08」の連載時評で内野儀が「不可能性の時代の演劇」という題で、地点の三浦基やチェルフィッチュの岡田利規、それから宮沢章夫の今回の本公演などが触れられていました。その論旨は ineさんの記事とは直接関係ないかもしれませんが、興味の対象はかなり重なっているのではないでしょうか。

Posted by: てつか | June 07, 2005 at 01:05

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