「虚の第一世代」の2つの目線(川村毅《クリオネ》)
軽い芝居、しょぼい芝居
ルー大柴が手塚とおるに言う。
どっか軽いんだよ、あんた。2月にザ・スズナリで上演されたT factory《クリオネ》(*)の第二幕中盤で、のらりくらりとした態度を取り続ける首塔聖人(手塚)に映画監督・国仲誠一郎(ルー)が言うセリフだ。このセリフは、《トーキョー/不在/ハムレット》の冒頭で(そして終わりの方で)島村幸森がローソン前で贄田に言うセリフ、
しょぼいっすね。を思い起こさせる。この二つが同じことを意味しているわけではないが、どちらも現在の日本社会に対する否定的なコメント(「軽い」は必ずしも否定的な形容詞ではないが、国仲は明らかに否定的な意味を込めて使っている)であると言ってよいと思う。ただ、川村毅と宮沢章夫では目線が違う。
そしてこれらのコメントは、それぞれの芝居自体にも当てはまっている。《クリオネ》は「どっか軽」く、《トーキョー・・・》は「しょぼい」。結果としてそうなってしまったというより、必然的にそうなっているのだ。つまり《クリオネ》は「どっか軽」さを、《トーキョー・・・》は「しょぼ」さをそれ自体で観客に提出するべく作られているのだ。
2つの芝居の背後に、川村と宮沢の問題意識の重なり合うところがあるのは確かだ。《クリオネ》は「神なき国の夜」と題した連作の第一作として位置付けられているが、「神なき国」とは、《トーキョー・・・》でいうところの「秋人の不在」である。天皇制が不在化しつつも温存されている状況。これが、現在の日本社会へのコメントとなりうるような舞台を作る上での前提として共有されているように思う。そして、どちらの芝居でも、登場人物たちは物語を求めている。
また、郊外への関心という点でも重なるところがある。《トーキョー・・・》では北川辺町という郊外を舞台にし、そこと東京が見かけ上2つの極になっている。それに対して《クリオネ》では、白根町団地(*2)という高度成長期に開発された郊外の団地が主要な人物の原風景として登場し、国仲や真城、安西らが普段生活している場所--はっきりと名指されることはないが東京だ。安西は「都内」では凧を揚げる広い場所がないと言っている--が場所的な2つの極になっている。
さらに言えば、この2つの舞台は、本公演に至る過程にも類似点がある。どちらもワークインプログレスの形を採り、04年5月に実験的な公演からプロジェクトを始めている。《クリオネ》に関しては、第一幕第一稿をサイスタジオコモネBで、リーディング公演の後、約1カ月間に渡って毎週末、第三エロチカ、文学座、日大芸術学部演劇学科生の3チームが日替わりで繰り返し上演した。さらに同年12月に三軒茶屋シアタートラムで、第一幕(第三稿)のリーディング公演が本公演とほぼ同じ役者により行われている。また、《トーキョー・・・》同様に原作の書き下ろし小説が発表されている(「すばる」04年5月号掲載「夜」)。
宮沢章夫は1956年生まれで、川村毅は1959年生まれ。二人はともに50年代後半生まれで、高度経済成長期の最初に生まれた世代である。首塔聖人の言い方では、「虚の第一世代」ということになる。だから、問題意識が重なり合うことに不思議はない。
同世代を見る川村、子どもの世代をみる宮沢
しかし、二人の目線は違う。宮沢がごく若い役者たちを「こきつかって」(前々回のエントリー参照)自分の子どもの世代である20代の生態(とりわけ贄田、小西といったニートたち)を中心に据えたのに対して、川村はキャリアを積んできた役者を使って同世代を描いた(チラシには「東京に生きる40代の人々の痛みを描く」とある)。
共通点があるだけに、この違いが凄く面白い。私は宮沢の舞台を見るのは初めてだし、川村作品もそれほど見ていない。だから作者の比較は誰かほかの人にお願いしたいところだが、おそらく川村は作家的志向性が強く、宮沢はそうではないということからこの違いが生じているのだろう。
同時並行で進められたワークインプログレスの内容も、プロセスの本公演への寄与という点から見ると、川村の方は彼が戯曲を練り上げるために役立てられた面が大きいが、宮沢の方は戯曲は早々と出来上がっていて、それを素材として、役者たちを使っていろいろ実験してみて、パフォーマンスのアイデアを用意していったという風に見える。つまり、「子どもの世代/同世代」という目線の先の違いが、二人の戯曲に対する距離感の違いに重なっているのだ。
おそらく、《トーキョー・・・》の舞台が「しょぼい」のは宮沢が子どもの世代をしょぼい存在として捉えているからであり、《クリオネ》が「どっか軽い」のは川村が同世代の抱える問題をそのように捉えているからだなのだ。
《トーキョー・・・》の「しょぼ」さは、作品に持ち込まれた現実(北川辺などの風景映像、あるいは世田谷、歌舞伎町、上野、伊勢丹、ローソン、ココスなどの具体的な地名や店名)や、設定の一部を借りている「ハムレット」という物語の大きさに対して、舞台や役者たちの立ち上げようとしているイリュージョンの貧相さに由来している。そこにはズタズタになった物語の断片と、その断片と戯れるパフォーマンスしかない。こうしたものは、「しょぼ」くあるために召喚されたという見方も可能だろう。
一方、《クリオネ》は、一応は物語が成立しているかのようなイリュージョンを観客に与えてくれる。劇場に入ると、クリオネを暗示するとも思える星形模様の色褪せた壁紙が三方を囲んでいるだけのがらんと舞台。そして、メリーゴーランドを連想させるようなひなびた音楽。開演前から、ここでレトロなファンタジーを垣間見るのだと予感させるではないか。
そこへ、大きな体を縮こまらせるように振る舞う外村史郎(*3)が登場する。パニック障害でアトピーのシナリオライター・真城涼だ。昼ドラや火曜サスペンス劇場の脚本を書き、国仲と組んで人がどんどん死ぬVシネマの脚本を書いてきた。映画プロデューサーの安西栄一(笠木誠)はサングラスを掛け、誰にでも馴れ馴れしくていい加減な、いかにも業界人然とした男だ。「生ビールよりポッピー、煙草でなくシガリロ、銀座のクラブより中野のキャバクラを好む」ちょっとした無頼派気取り。田中角栄を尊敬し、半分人生を降りちゃったような男だ。笠木のうさんくさい演技がいい。国仲を演じるルー大柴に関しては説明不要だろう。やたら威勢はいいが、まさに「虚の第一世代」という言葉がぴったりきそうな男だ(ルー大柴は1954年生まれ)。
そして、彼らが組んで作った映画のモデルである、やはり同世代という設定の殺人犯(名前は与えられていない)。伊澤勉は、いつもどこを見ているのか判らないような捕らえどころのない、それだけに周囲を不安にさせる奇妙な男としてこれを演じる。国仲の恋人・白崎理香を演じる紅一点の宮本裕子の役は、ローマ帰りの外交官の娘。自尊心と独立心が程々に高く自分の弱さを認めることが出来ない。そして強烈な個性を放つ国仲の小学校時代の同級生・首塔聖人を演じる手塚とおる(但し、私は彼のエキセントリックな演技はあまり評価しない)。役者がしっかりと登場人物に存在感を与えている。そして登場人物のキャラが立っている。だから、彼らを見ているだけで十分に面白い。
「虚の第一世代」のテーマと彼らが共有するもの
ところが、そんな彼らが拠り所としているそれぞれの物語が空虚なものであることが次第に明らかになる。《トーキョー・・・》が物語の不可能性を前提条件とするところから始めたのに対して、《クリオネ》では、同じ問題が内在化され、その発見プロセスに焦点が置かれる。
トラウマを繰り返し語るうちに粉飾が進み、どこまでが真実か自分でも判らなくなってしまった真城は白崎に言う。
真実なんてどこにもない。なんだか今初めて気がついた。なぜあなたとぼくが国仲を必要としているのか。彼のどこを探しても真実がないからです。これが彼らの追求すべきテーマであり、おそらく、彼らの世代固有のテーマでもある。子どもの世代の贄田たちはこんなことは気にしない。真実かどうかなんてどうでもいい。根拠なく「全部、秋人の仕業だ」と言い張ることで刹那的に物語が立ち上がりさえすればそれでいいのだ。まあ、「電車男」人気みたいなものかもしれない。
彼らは真実に依拠できないことに苛立っている。真城は言う。
おれは思った。すべてが宙ぶらりんだ。飲んでいる酒は苦くもなければ甘くもない。(中略)おれのなかのすべてが、死んでいるわけでも生きているわけでもないオヤジのように・・・そうなってしまったのは、上の世代(全共闘世代)のように歴史に関われなかったからだと考えているからだろう。内ゲバで人を殺した「男」は言う。
服役中に感じていたのは塀の外で歴史が動いているということです。今でもその感覚が続いている。(中略)歴史は自分の外側でしか動いていない。
このような時代を掴むキャッチフレーズあるいはアフォリズムのようなセリフが川村の芝居にはよく飛び交う。これがまた彼の芝居の「なんか軽い」ところだ。しかし、《クリオネ》のような芝居を書いたのだから、彼はそれも承知の上でやっているのだと思う。この作品は彼の自己批判のようにも思える。
ところで、彼らが贄田たちと同様に「物語の不可能性」を生きているのだとしても、子どもの世代とは違って、彼らはまだ「大きな物語」の残響の中には居るのだと思う。これを2つの芝居の独白の構造の違いにみてみよう。
《クリオネ》においては、しばしば登場人物が独白によって、TVのドキュメント番組のナビゲーター(*4)のような役割をこなす。芝居の冒頭で独白する真城は、これから紹介するルポ映像の解説者のようにシーンの状況を語る。そして、映像がインサートされる代わりに白崎が舞台に登場して、二人は会話する。真城は会話の途中でも、自分の主観的な感想や解説を挟んだりする。同じような形式で真城は国仲との会話のシーンも紹介するが、その中ではさらに国仲がナビゲーターとなって首塔との出会いをインサートするという入れ子構造になっている。こうした構造は、彼らがかりそめであっても出来事にフレームを与えられる存在であることを前提にしている。
第二幕になると過去に登場したシーンがナビゲーター役を変えてもう一度語られる。例えば、真城の立場から語られた真城と国仲のバーでの会話が、今度は国仲によって語られる。いわゆる「藪の中」的アイデアなのだが、ここで興味深いのは、ナビゲーター役が変わってもシーンの印象はそれほど変わらないということだ。つまり、真城も国仲も白崎も個人的感慨のレベルではそれぞれに違うが、物事の認識の仕方、考え方はそう大して違わない。それは彼らが価値観のレベルで共有し合うものがあるからだと思う。これが《トーキョー・・・》の若者たちだったらこうはいかないだろう。ローソン前に残された贄田と小西と幸森が同じ場面をナビゲートしたら互いに全く違った印象のものになるのではないか。
さて、《トーキョー・・・》では、各シーンのなどに、さまざまな登場人物によって長い独白が行われる。それは、フォークナーっぽい意識の流れ的文体で書かれた原作「秋人の不在」の地の文をそのまま引用したようなセリフで、一人ひとりが外界と断絶したような意識を抱えて生きていることを感じさせる。
さらに言えば、その独白の文体は、誰の独白であっても、年齢や性別などの属性を無視して、同一性を感じさせるように書かれている。独白の語り手は、役を突き抜けて、この舞台全体を司っている神=作者ではないかと感じられる。無論、書き分けることくらいできたはずだが、宮沢はあえてそうしなかった。それは、彼がこれを若者たちを「こき使って」作ったことに対する矜持のようなものだと思う。あくまでも「これは、自分=宮沢から見た世界である」という刻印だ。贄田たちが自分たちの世代の問題を内在的に語る芝居は、宮沢の仕事ではなく、贄田たちと同世代の劇作家によって書かれる必要がある。
白根町団地へ向かった彼らはどう生きるのか
最後に、2つの芝居におけるトポスの役割を比較して、この小論を締めくくる。首塔の名付けるところの「虚の第一世代」の内面には、親の世代と自分の生まれ育った社会に対するアンビバレントな感情が渦巻いている。首塔は国仲に言う。
あなたには市民社会への憎悪がある。まさしく父親たちが築き上げたものですね。国仲は言う。
適度に安定した生活を送ってると新興住宅地の光景が甦ってくるんだ。それゆえ《クリオネ》では郊外が、郊外出身の中年によって、東京から振り返られる場所として位置付けられる。一度は捨ててきた場所ではあるが、自分たちの原点として再発見されるのだ。
これに対して、《トーキョー・・・》でのベクトルは、郊外から東京を志向しつつも、東京にはたどり着かず、トポスを失ったどこでもない場所へと拡散してしまうのだ。宮沢のWeb日記「富士日記」(2004年2月21日~29日分)を読めば明らかなように、彼は北川辺町にはなんの思い入れもない。戯曲が彼の舞台にとって材料でしかないように、北川辺町という場所も単なる材料でしかない。だから、トポスを喪失した場所として突き放して提示することができる。《トーキョー・・・》のラストで、音声とスクリーンの文字となって提示される贄田の独白は、故郷への憎悪を語っているが、およそ唐突で空虚に感じられるのはそのためだ(だいたい、フォークナーの小説『アブサロム、アブサロム!』のパロディだし)。
郊外に向ける川村の目線は宮沢のそれとは違う。トポスを喪失した場所であっても、そこで生まれ育った中年にとっては、自分のアイデンティティと切り離すことのできない特別な場所なのだ。たとえそこに真実がなくても、我々の世代はそれを我が物語としなければならない--これは、死体が埋まっていないと判っていても、穴を掘り続けるラストシーンが主張しているメッセージでもある。
青空に凧の揚がる幕切れは明るいが、空虚な明るさだ。それは、川村が、彼らは春になれば消えてしまうクリオネのように儚い存在だと捉えてしまったからだ。クリオネという現状認識はいい。では、彼らが本当に明るく生きるための可能性はどこにあるのか。そして、真城の指摘する「見えない戦争」に対して、彼ら--いや、私たち全員はどう対処していったらいいのか。連作二作目以降では、その辺までつっこんで欲しい。
(*)2005年2月3日~13日上演
作・演出:川村毅
出演:手塚とおる、宮本裕子、外村史郎(文学座)、伊澤勉、笠木誠、ルー大柴
美術:島次郎、照明:大野道乃、音響:原島正治、衣装:伊藤かよみ
製作:平井佳子、株式会社ティーファクトリー
(*2)「白根町団地」は「都内の会社に通う会社員たちのためのベッドタウン」として設定されている。「白根町団地」をgoogleやYahoo!、gooなどで検索してみてもなにも検索にひっかかってこない。「白根団地」で調べると、山梨県南アルプス市に1965年に作られた平屋の団地、横浜市旭区白根に1964年から分譲の始まった団地(これはかなり大きいらしい)、それに直接的なデータはないが茨城県取手市にあるらしいものの3箇所である。作品の終盤で国仲らは東海道線のグリーン車で行くとあるから、検索結果でこの交通手段と唯一矛盾しないのは横浜の白根団地ということになる。横浜駅まで東海道線に乗って、それから相鉄線に乗り換えて、鶴ヶ峰駅下車だ。川村毅が横浜育ちであることを考えると、ここがモデルになっている可能性はありそうだ。
(*3)私の見た初日(2月3日)、外村はセリフを噛みまくっていた。未確認だが、何かアクシデントがあったようだ。
(*4)例えば、NHK特集でのスタジオで語るアナウンサー、あるいはテレビ東京「ガイアの夜明け」での役所広司みたいな存在。あまりぴったりした例ではないけれど。
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