ダンサーの身体を可視化する振付(松本大樹《7区》など)
このところ「なんでもあり」感の下、コンテンポラリーダンス・シーンが盛り上がっている。盛り上がるのは結構なことだが、実際のところ、日本のダンサーたちが「なんでもあり」で自由に踊れるようになっているとは思わない。従来のダンスカルチャーの規制から解放されたり、対抗する文化が勃興したというよりも、単に曖昧になり、不可視になってきたということのような気がする。
先日書いた勅使川原三郎《風花》についての文章で、振付とダンスカルチャーの規制の齟齬について考えた。ポスト・モダンダンス以降のダンスが行った一つの重要な取り組みは、それまでのダンスカルチャー(バレエやマーサ・グレアムのモダンダンスといったもの)を身体に対する規制として捉え直し、「日常の身体」というこれもまた個々の文化の規制の下にある身体の隣に置いてみることであったように思う。その時、振付の意味も変わった--それまでの振付がダンスカルチャーの上での営みであったのに対して、ポスト・モダンダンス以降は、「日常の身体」を含むさまざまな規制の下にある身体を、それらの規制を意識化しつつ取り扱うことになった。そして、それ以来、ダンサーの身体をチューンナップするダンスカルチャーと振付の不可分性が自明ではなくなったのだと思う。
改めてそう考えた時、最近日本では、ダンスカルチャーの規制を振付との関係において意識化するような試みは、どこでなされているのだろうか? ということが気になってくる。以下は、この問題に対してアプローチする、粗雑な試みである。
■「再調教」よりも「編集」の振付
まず第一の問いとして、(かつての)勅使川原のような、自らの身体から生み出した身体技法によって独自のダンスカルチャーを打ち立てることで、ダンサーの身体と振付の関係の不可分性を回復させる存在はいるだろうか? と考えてみる。よく知らないが舞踏系にはけっこういるのかもしれない(代表的なところでは山海塾の天児牛大とか)が、もはやそうした関係は主流ではなくなっているように見受けられる。
その理由として二つ思いつくが、一つは演劇(小劇場?)業界同様に、コンテンポラリーダンスの方でもフリーエージェント化が進み、プロデュース制がカンパニー制を凌駕しつつあるから、ということが考えられる。
先日の縁もあり、『演劇人』19号掲載の大岡淳氏の演劇時評「ポスト・アングラの潮流を追って」を読んだら、だいたいこんな主旨の指摘が書かれていて、なるほどと思った。
三浦基や岡田利規などの公演を見ていると、演出家も俳優もフリーエージェント化の進む演劇界の潮流の中で、演出家は個別の俳優の肉体とは無関係に自己の演出様式を打ち出すこと、俳優はどんな演出もそつなくこなせることを目指しているように感じられる。こんな姿勢では、業界内での新規性を打ち出すことはできても、社会的なインパクトを生み出すことはできない。なぜなら、個別的な「肉体」に替わって抽象化(デオドラント化)した「身体」の横行する現在の社会の様相をなぞるに留まってしまうから。ならば、身体の交換可能性をグロテスクなまでにおし広げてみよ。--大岡氏の主張を正確に捉えていないかも知れないが、私が時評から受けた示唆はそういうことだ。
ここで指摘されている演出家と俳優の状況について、(ハイアートの)ダンス業界での振付家とダンサーについて当てはまる部分はありそうだ。
ただし、演出家の在り方と振付家の在り方は違う。コンテンポラリーダンスでは、振付家は自ら踊ることが多く、その場合には踊る身体と振付の不可分性は、極めて幸福な状態にある。そこで、もう一つの理由として、そうした振付家=ダンサーが、他者の身体を調教することに自分の身体技法を積極的に活用しなくなってきたということが挙げられそうだ。
例えば、先日、井手茂太のソロ《井手孤独》(2005年5月26日~29日、シアタートラム)を見てきたばかりだが、彼は紛れもなくユニークな身体性とそれと不可分に結びついたダンスを作る人物だ。しかし、彼はイデビアン・クルーのメンバーに、非常に詳細な振付こそするものの、彼らの身体を再調教しようとしているようには見受けられない。むしろ、それぞれの身体の持ち味を生かそうとしている。
それでも、イデビアン・クルーにある種の統一感が見られるのは、井手の個性から派生したカンパニーのカラーによってダンサーが選別されているからだろう。去年の暮れ、森下スタジオでやった「ネクストネクスト5」で見た鈴木ユキオ《幸福の森の掟》には、そうしたカラーすら見つけられなかった。結成10年のイデビアン・クルーに比べたら、歴史がないから当然といえば当然だが、鈴木もまた見分けやすい特徴的な動きをする身体をもっているにも関わらず、起用されたダンサーたちは、彼の身体性の片鱗も共有しているように思えなかった。彼は、ダンサーたちの身体を規制することなく、極めて「編集的」な態度で振り付けているのだろうと想像する。
輝く未来からゾロゾロと才能を輩出した伊藤キムも、”ミニ伊藤キム”みたいなダンサーは一人も作らなかった。最近は、カリスマの下に集って、身も心も捧げて精進するようなスタイルは流行らないし、振付家の方でも、自分の身体から紡ぎ出した身体技法を、他者に移植可能な方法論へと練り上げていくべきものとは捉えなくなっているのだろう。各人の身体はいじらずに尊重し、編集する。あるいはトーンの合う身体が集う(珍しいキノコ舞踊団とか?)。
それはそれで結構なことである。では、そうやって編集される個々の身体、優れた振付家=ダンサーの下に集って、自らの身体性を突出させない諸々のダンサーたちの身体は、どのようなダンスカルチャーの規制の下にあるのだろうか? バレエ? モダンダンス? あるいはそれらがいろいろと淡くミックスした状態? それとも、もうこれと言ったダンスカルチャーなんてないのか?
■齟齬はむしろ可能性--松本大樹作品への違和感から
そこで、第二の問いとして、ダンサーが自らの身体をダンサーとしてチューンナップする過程で受け入れたはずのダンスカルチャーの規制を可視化するような戦略をもった振付家はいるだろうか? と考えてみる。
日本のコンテンポラリーダンス・シーンでの戦略という話からはズレてしまうが、去年上演された「安藤洋子×ウィリアム・フォーサイス」(2004年2月25~28日、世田谷パブリックシアター)は、そうした齟齬に満ちた公演ではなかっただろうか。安藤洋子がまず、これ以前のフランクフルトバレエの来日上演で見せつけられた”フォーサイスダンサー”の身体とはほど遠いものであった。フォーサイス本人がアフタートークで語っていたように、彼はそのことを承知で、彼女の身体の異質さに魅せられて彼女を受け入れたのだった。
また、《クインテット》を再演するに当たって、安藤と共に、Demond Hartという、これがバレエダンサーかと驚くほどに重量感の際立つダンサーを起用したのは、フォーサイスが、1993年の初演当時においてはギャビン・ブライヤーズの《Jesus' Blood Never Failed Me Yet》との相乗効果で終末感と演出できたこの作品を、今日、コミカルな方向へシフトしなければ、再演は不可能だと判断したからではないか(このことは以前にも書いた)。
あの公演は、手兵を率いてばかりもいられなくなったフォーサイスが、ダンサーの身体と自分のバレエとの齟齬を積極的に利用するという戦術に向かったと見ることもできるだろう。これを、「脱構築バレエ」の脱構築、なんて言ってみることも可能かもしれない。
もし、日本のコンテンポラリーダンス・シーンで、こうした方法が試みられたとしたら、それはどんな風な舞台になるだろうか? 安藤×フォーサイスのような例なら、イデビアン・クルーの公演に岩下徹が出演した《コッペリア》(1999年、世田谷パブリックシアター)などが思い出されるが、そのような了解済みの異質さを並置させるやり方ではなく、観客に「なーんか、ヘンだぞ?」と感じさせて、そのヘンな感覚を問いつめていくことが、ダンサーの身体が従属している規制を可視化することにつながるような舞台だ。
私がそこで思い出すのが、今年の始めにセッションハウス(2005年1月10日)で見た松本大樹振付による「大樹近作集2」だ。というよりも、この公演を見て以来、「なーんか、ヘンだぞ?」という違和感がずっと残り続けて、そののち、《風花》を見たり、大岡氏の時評を読んだしたことで書くことになったのが、このエッセイみたいな記事である。
ただし、あの公演の違和感は、未だにうまく分析できない。最初の《7区》という作品を見た時、振付や音楽や照明などの諸要素と、起用されたダンサーたち(若松智子、奥田純子、JOU、大塚啓一)の身体(とりわけ大塚啓一)との間に居心地の悪い齟齬を感じた。一言で言えば、「これはヨーロッパのダンサーが踊ってこそサマになるダンスではないか?!」と思わずにはいられなかったのだ。
そういえば、私たちはもう日本人がバレエやモダンダンスを踊るのを見ても違和感を感じない。それにはおそらくダンサー側の変化と観客側の変化の二つの理由があると思う。一つは、そうしたダンスカルチャーの規制をしっかり身につけたダンサーが登場するようになったため、振付と身体性の齟齬があるレベルで解消されたということ。もう一つは観客が日本人がそういうダンスを踊るのを見慣れたということ。
となると、《7区》における私の違和感の原因は、単に私にとって見慣れないものを見たから、という可能性もある。ところが、続く《PIPE#1(トリ)》という作品は松本本人のソロだったのだが、これには違和感を感じなかった。ということは、やはりダンサーの身体と振付の間に齟齬があったのだと思う。それがなんなのか、よくわからない。ただ、松本は素材の個性を生かすような編集はしなかったとだけは言えるだろう。彼はダンサーの身体とは無関係に自分の美意識にあった振付を作り、それを調達したダンサーたちに割り振った。その結果、《風花》的事態が生じたのだ。(*)
松本が、果たしてダンスカルチャーの規制を可視化するために、わざとやったのかどうかはわからない。おそらく違うだろう。はじめの頃、彼の公演に対して、私は違和感ゆえに否定的な感想を抱いていたのだが、こうして考えていくうちに、次第に肯定的になった。こうした事態を発生させることができるということは、現況では結構、貴重なことなのではないか? と思うようになったからだ。大岡氏の処方箋「身体の交換可能性をグロテスクなまでにおし広げてみよ」の一つの実践と見ることもできるかもしれない(もちろん、本人がそういうつもりかどうかは別の話)。
ダンスカルチャーが曖昧になり、複数の振付家たちの公演を渡り歩くダンサーたちの身体が見えにくくなっている(単に私の眼力がないだけかもしれないが)。彼ら(彼女ら)の身体を可視化する一つの道は、齟齬をきたすような振付でダンサーが受け入れた規制をあぶり出すこと。もう一つの道は、振付家が個々のダンサーの身体性を発見して、それを単にキャラとして扱うのではなく主題化するように編集することではないか。
(*)たまたま居合わせた舞踊評論家の話では、松本大樹は、身長の高い女性ダンサーを揃えようとしたのだという。動きの質など、ダンスには重要と思われる他のパラメーターに対して身長を優先させたことが、このような面白い結果を生んだということか。
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