チェルフィッチュダンスのこれから(岡田利規《クーラー》)
4回目を迎えた「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」(7月9日、10日)の会場がシアタートラムから世田谷パブリックシアターに移り、今年は私もようやくチケットを入手することができた。ところがタイミング悪く本業がビックリするほどの忙しさ。仕方なく1日目のチケットは知人に譲り、2日目も最低限の時間を客席で過ごして、審査結果も聞かずにソッコーで仕事に戻った。最後の 《kNewman》 など「こんなもん観ている場合か」と思えてならず、席が通路から離れていなかったら、中座していたと思う。疲れている人間は、繊細なところに美徳のある作品は楽しめない。だから、昨年10月のSTスポットでの上演は楽しめた新鋪美佳 《るる ざざ》 も、今回は無感動に眺めるだけだった。
そうした中で、こちらのスタミナのなさ、集中力の低さを物ともせずに引き付けて止まなかったのが岡田利規 《クーラー》 だ。この作品は昨年8月にパークタワーホールで一度観ているので2度目だが、2度目になると初めて観た時(チェルフィッチュ自体初めてだった)の「なんじゃこりゃ!?」というインパクトはもうないし、「警察呼んでいいんじゃないですか」などの発言のバカバカしさに対する免疫もできてくる。そうすると、喋り(依然として、喋りが可笑しいのはいうまでもないが)やデフォルメされた動作といった、要素ごとの可笑しさより、舞台の上に立つパフォーマーの存在そのものがそこはかとなく可笑しいことに気づく。言い換えれば、二人の身体が面白かったのだ。そんなわけで、初見時は、ダンスとして評価することに積極的意義を感じなかったのだが、今回は、これはダンスとして評価してこそ面白いと考えた。
今年の『現代詩手帖』3月号に「言葉が身体を動かす」というようなことを岡田本人が書いていたのを読んだけれど、《クーラー》を見ていると、「言葉」というより「コミュニケーションの場」が身体を動かしているのだといった方が自分には的確に思える。言葉を想起する時に、その意味を再獲得するプロセスが身体を駆動するといったような、発話者だけに閉じられた現象とは考えにくいからだ。誰もいない部屋で、与えられた台詞を一人で音読した場合、身体はほとんど動かないのではないか(*1)。
《クーラー》のマキコさんと同僚の男性の身体を駆動させているのは、目の前に他者がいて、その人の前で語り手を演じなければならない、あるいは聞き手を演じなければならないという状況ではないか。そうした時に感じる、居心地の悪さや面倒くささ、あるいは自分の感じている気分と自分の行っている表現のギャップといったものが、どうにも身体をじっとしていられなくさせている、そんな風に考えた方が、自分自身の経験に照らしてもしっくりくる。
客席でぐったりしていた私の胸ぐらを掴んだ《クーラー》の面白さは、なによりも方法の新しさである。そこで、この新しい方法を「チェルフィッチュダンス」と呼ぶことにして、チェルフィッチュダンスの面白さ・新しさのポイントを挙げてみると、とりあえず浮かぶのは次の3点だろう。
- 従来のダンステクニックに全く依存していない
- コミュニケーションの在り方という切り口で、今日的な身体を可視化している
- パフォーマーの主体性や振付家の表現よりも、場に駆動される身体が前景化している
ところで、そもそも「チェルフィッチュダンス」はダンスなのか? あれは振付なのか?(*2)という問題がある。それでは、「ダンスとは?」「振付とは?」ということになるのだが、ジャンルを定義によって規定することは、ジャンルを固定化し、発展を阻害するだけである。かといって、「これもダンス、あれもダンス」と無節操に見立てをやれば、言葉がどんどん曖昧化して力を失っていくだけだ。新しいものを既存の枠組みに回収しようとしてはいけないが、既存のダンスと関われない行為をそう呼んでもしょうがない。それをダンスと呼ぶかどうかの基準は、「それをダンスとして評価した場合に、既存の枠組みに有意義なインパクトを与えるかどうか」を考えればよいと思う。
チェルフィッチュダンスの場合はどうか。これはまだ思いつきなのだが、日常的動作をサンプリングしたようなポストモダンダンスと舞踏との間に、チェルフィッチュダンスを配置してみると、面白いのではないかと思う。
まず、上述のようなポストモダンダンスとの比較だが、チェルフィッチュダンスの違いは、抽出されている動作が、「歩行」や「物を掴む」などといった主体的な行為の部分から切り取られた動作ではないということにある。そうではなくて、無自覚な運動がサンプリングされているのだ。この比較をヒントにして、サンプリングした運動から意味を剥ぎ取り、構成要素として扱うポストモダンダンスの方法と、場が誘導する身体の無自覚な運動に注目するチェルフィッチュダンスのアプローチを組み合わせることが考えられそうだ。《クーラー》において取り上げた対話の場を、別のさまざまな相互作用的なシチュエーションに置き換えていくのだ。たとえば通勤電車という場における身体たちを取り上げるとか。社会の中の主体としての個人でもなく、集合的無意識を露わにする個体でもない。その場その場の、消極的にであれ積極的にであれ場を共有する身体間の関係に応答して動く身体としての個人・・・チェルフィッチュダンスは、ポストモダンダンスまでのダンスが析出できなかった後期近代的な個人を見せてくれるのではないかという予感がする。
一方、舞踏との比較では、舞踏が内発的にダンスが導出されることを重視する傾向が強い(舞踏がすべてそうだと言うのははばかられる)のに対して、チェルフィッチュダンスは、身体と身体の関係性に焦点が当てられている。そこで、身体の内部から身体間の自発的な応答へと重点をズラすことによって、舞踏からの発展(舞踏の発展ではない)を考えていくことができるかもしれない。
以上は思いつきだが、チェルフィッチュダンスの秘めている可能性は、確かに大きいと思う。ただし、《クーラー》はとば口のような物で、まだいろいろと考えるべきことがある。身体だけを見せていくなら、劇場でやらない方が良いだろうし、舞台芸術として練り上げていくなら、照明・音楽・空間の使い方などはこれからの課題だろう。どちらの方向性に進むにしても、チェルフィッチュダンスを、チェルフィッチュ演劇の副産物に止まらせておいて欲しくないし、岡田にダンサーへの振付を依頼するようなことは止めて欲しい。チェルフィッチュ演劇の大きな特徴である「伝聞」や「話法の多重化」といったセリフ上の仕掛けとは別のところで発展していくべきだと思うし、ダンスカルチャーの規制下にある身体とも無縁のところで、新しいダンスを始めて欲しいのだ。もし、彼が演劇の方で忙しくてダンスにまで手が回らないというなら、他の人が彼の仕事を引き継いでもいいと思う。私としては、コンテンポラリーダンスの名の下で活動してきた人たちが、チェルフィッチュダンスに影響されて動き始めることも期待している(単なる真似じゃこまるけれど)。
(*1)発売された『三月の5日間』(白水社)で試してみると良い。特に気持ちを込めたりせずにダラダラ読めば、身体はほとんど動かないだろう。気持ちを込めると動き始める。私が台詞によって生み出される語り手となったとき、同時に私は聞き手の存在を無意識のうちに想定しているのだと思う。語るという行為は、架空のものであれ聞き手に向かうという意識を必然的に含んでいるのではないか。
(*2)審査委員長が「《クーラー》は振付ではない」と言ったとか言わないとか。仮に彼がそう言ったために岡田利規が落選したのだとして、もし私が岡田だったら、「そんな基本的な理由で落とすなら、そもそも最終選考に残すなよ!」とタンカを切りたくなる。審査委員長の振付観を非難するつもりはない(無論、賛同もしないが)。非難すべきは、この賞のポリシーのなき運営だろう。せっかく大企業がお金を出してくれているのにもったいない話である。(キツイことを書いてしまったが、すべては岡田利規落選に上述のような経緯があったとしてのハナシである)

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