まことクラヴ部活動報告会「シカク」
そのうち時間が出来たらちゃんと文章化して、などと寝かせておくと、そのまま書かずに忘れてしまう。そうやっていくつもの公演をやり過ごしてきた。ので、ホントにメモ的にでも書くことにした。
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恐ろしくシニカルである。彼らはシニカルにならざるを得ないと考え、そうであることを楽しむ道を示そうとしているのだろうか? 本当にそこに進むべき道などあるのだろうか?
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身体の生々しさが消去されている。
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遠田誠は、私にとってはとても生々しい独自の身体を感じさせるダンサーだった。伊藤キム作品(例えば《ANATA》(1996))やセッションハウスでのグループ公演『「未来」あたりの。』で上演した彼の作品《a(b+c)》(2000)などでは、彼の身体をとても生理的に感受させられた。また、江戸川卍丸だって斉藤栄治だって、個性的な男臭さを感じさを期待できるようなダンサーに思える。それが、どうしたことか、そうしたものを消す方向が志向されていて、ほぼ無臭化を完了させている。まことクラヴの単独公演を観るのは初めてだが、《ニッポニアニッポン》(2004)でスーツ姿やジャージ姿の彼らを観た時に、この変化に気づくべきだったのかもしれない。
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そうした傾向の最もわかりやすいのは、アップテンポな打ち込み系の曲に合わせて平行移動しながら単純なパターンを機械的に反復して踊るシーンで、ディスプレイの中のキャラクターを模しているようだ。後半の椅子を使ったシーンなどを観ても、身体の過剰さをキャラとしての過剰さに置き換えている。
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どうして薄っぺらで記号的な身体を目指すのか? これは一種の消滅願望だろうか。無限の自己否定すら感じる。
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ウエルメイドが虚無的に目指されている。
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全体の進行や手順がきめ細かく演出されている(例えば、初めの方と終盤にそれぞれ一回ずつ光るフラッシュ)。そして、リアルタイム映像、映画(車に追われる遠田)、スチール画像(団地風景)の活用、生演奏による音楽など、とても手が込んでいる。さらに、舞台の袖や裏(エレベーター)までも最大限に使おうとしている。素材を最大限に生かし、手際よくプレゼンテーションするウエルメイドなエンターテインメントを目指そうとしているかのようだ。それは、彼らに対してもっていたイメージ(それは主として輝く未来のメンバーとして形成されたものだが)とミスマッチだし、公演を観ていても、彼らがなぜそうした方向を目指そうとしているのか理解できない。
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というのも、手際ばかりニートに並べられたネタ自体は、およそウエルメイドでもニートでもないからだ。私の観た回で客席が湧いたのは、中森下真樹菜ともう一人の男性(忘れた)が服に番号札を大量につけて、ジャラジャラさせながら踊るオバカなネタと、長井江里奈が縄跳びを使って、表情で笑わせるネタだった。
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だったら、どうして2-1のようなことが志向されているのか。やはり不可解。もしかすると、彼らの「良い公演のモデル」がそういうものだからだろうか? 内容の虚無的なナンセンスさにも関わらず2-1のような志向によって無毒無害をアピールして観客を安心させることが目指されているのだろうか。そして、彼らの目的は観客にウケること以上でも以下でもないのか。
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彼らが本気で上記のようなことを目指しているとは、にわかには信じられない思いだが、評論家・武藤大祐氏もブログにこう書いている。
ここでは環境から演繹された規則にひたすら身体を馴致していく行為が、対象化されることもなく、むしろその行為自体に他ならぬ「コンテンポラリーダンス作品の成就」という「夢」のようなものが賭けられているように感じられる。
もしも、本当に彼らがそんな「夢」を描いているとしたら、そしてさらに、客席でもその「夢」が共有されているのだとしたら・・・・ 私たちはコンテンポラリーダンスがエスタブリッシュされたジャンルなどではない、ということをもう一度思い出す必要があるのかもしれない。
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話は飛んで、極めてプライベートな感想になるが、2のようなものを前にして抱く印象は、以前から巷に溢れている和風ダイニングバーのチェーン店を利用した時の感覚に似ている。
なんというのだろう、薄暗い室内に、インテリアや食器、メニューなど、パッと見、料亭的なものを連想させるアイテムがちりばめられている。ニートでお洒落、現代風のひねりもある。だから、「満足感を与えてくれそう」という先入観が形成され、しかも値段も高くないから、ついつい利用してしまうのだが、しかし、出てくる料理を口にすれば、それらは決して良い食材を使っているわけでもなければ、優れた味覚で調整されているわけでもない。店のインテリアやテーブルの上の小物も冷静に見れば書き割りのようなチープさがある。
店の雰囲気のパッと見の豪華さと実質の薄っぺらさ--問題は、そのギャップを経験した後でも、私はそうした店を繰り返し利用していたということだ。それは、そうした店以外に手頃な値段で仲間と入れる適当な店を簡単には見つけられないという事情が大きい。つまり、消費の選択において、上っ面が口当たり良ければ、(情報)アクセスの優位性がサービス自体の実質的な価値に勝ってしまうということ。この傾向は和風ダイニングバーだけに限らず、最近の日本社会に蔓延してきているように感じる。誰も信じていない「これは素敵なもの」という記号が、アクセス優位性によって跋扈する社会。そして、そうした社会に暮らす私たちが消費するエンターテインメントとして、今回の公演はもしかしたら、相応しいのではないか、という気もするのだ。論理に飛躍があって申し訳ないが、それが私の直観的な感想である。舞台のシニカルな気分に感染してしまったのかもしれない。
(こまばアゴラ劇場、5月7日)

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