Web上の公演情報と公演評をまとめるための提言

ブログの仕組みを使って、散在する情報を集約したり、アクセスしやすくしようよ、というお話。

その前に、前フリ的言い訳。ここのところ、拙HPやブログの公演情報も公演評も更新が滞っている。このまま数多の個人HP同様に開店休業化してしまうのか? と思われているかも知れない。いやいや、自分的には「いまちょっと仕事的にも家庭的にも忙しくて苦しいから、更新は後回し」という状態にあるだけなのだけれど。昔よくチェックしていたユーモア系個人HPが、「もう暫くお待ちください」というメッセージによる更新が1カ月とか数か月単位で行われて、ついにはご臨終してしまったケースを見ているが、ここは絶対にそうしないつもり。さて・・・

1.公演情報をRSSで自動収集したい
これまで、公演情報はもっぱら劇場でもらったチラシから打ち込んできた。でも、そろそろチラシをメインの情報源にするのは止めてもいいかも知れないと思っている。そう思いながらも移行できないのは、Web上から公演情報を集めてくるのがかなり面倒くさいからだ。

いまや劇場やカンパニーがそれぞれにHPを立ち上げて、公演告知を思い思いのフォーマットで掲載している。これをみんながRSS文書で書いてくれたらとても便利だと思う。そして、公演告知は毎回決まったフォームで、同一のページで更新していくようにしてくれるといい。そうしたら、一回だけ、関心のあるカンパニーやよく行く劇場の公演告知ページを登録しさえすれば、その後は諸々の公演情報を自動収集できるじゃないですか。

告知のスタイルを統一しろなんてトンでもない!という声が出るかも知れない。確かに、公演告知についてはそれぞれに独自の表現を凝らしたいだろうから、それはそれで今まで通りページを作ってくれればいい。でも、それとは別に、RSS文書で書いたページがもう1ページあればいいんだけど、という話だ。それは大した手間じゃない。

いまコンテンポラリーダンス関連で公演情報がダントツで充実しているのは武藤大祐氏のページだと思うけれど(もはや私のページが遥かに及ばないことは認める)、自動収集できるようになったら、ああいうページがいろいろな人によってどんどん作られていくと思う。好みや関心の異なる作者(編集者?)によっていろいろなバージョンができるのはよいことだ。

2.公演評をトラックバックで集めたい
自分の見た公演についてHPやブログで感想なり批評なりを書いている人は今や大勢いる。だから、ある程度以上の集客のあった公演については、Googleで検索すれば、多数発見できる。けれども、これが面倒くさいのだ。というのは、公演名などを検索キーにしてひっかかってくるページには、どちらかというと告知情報を掲載したページが多い。その中から公演評のページを抽出しながら読んで回るのは骨が折れる。

そこで、劇場なりカンパニーの公演の告知ページに、公演評を書いた人からのトラックバックを受け付けるようにすればいいと思うのだ。自分のブログにある公演について書いた人は各自、その公演のカンパニーや劇場のサイトにある告知ページにトラックバックを送る。そうすれば、公演告知のページには、いろいろな人が書いた公演評のあるページへのリンクリストが自動的にできあがる。

そういう仕組みが普及しさえすれば、ある公演について、他の観客たちがどんなことを考えたのか知りたいと思ったら、その公演の告知ページにアクセスすれば簡単に知ることができる。もちろん、公演の制作者側にとっても、そうしたリストが自分のサイト内に自然発生的に作られていったら、有益だろう。

劇場という場は、観客が空間と時間を共有する場だが、共通の価値基盤的なものを失った現在、それは物理的な共有にしかならないことも多い。同じ場面で一緒に笑えば、それはある種の心理的共有になるかもしれない。しかし、それ以上の感情や思考については難しい。また、「同じ劇団が好き」という小劇場の趣味的な集いというのもつまらない。それは思想や認識の共有の形成というより「所属の確認」と呼ぶ方が相応しい。いま観客が何かもっと意義ある共有へ向かうことが仮に可能だとしたら(不可能かも知れないが)、その一つの方法はサイバースペースで劇場という場を補完することもしれない、という気がする。

先日、上記のような主旨を舞台芸術関係者のささやかな集いで述べてみた。その場ではあんまりピンとこなかったみたいで残念だったのだけれど、この記事を読んだ劇場やカンパニーのWeb制作担当の皆様、ひとつ真面目に検討してみてください。

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トラックバックしたらリンクがマナー?

9月号の「ココログマガジン」を受信した。いつもは読まずに捨てているのだが、今日はリンクをクリックして、「トラックバック入門」を読んだところ、「文中リンクのないトラックバックは送らないこと」をマナーとして推奨しているので驚いた。「当方の記事への参照がないトラックバックであっても、ほかの読者にとって参考になる記事は歓迎」という意見も併記されていたが、「トラックバック五箇条」の第一として、「なるべく送信先へのリンクをするべし」とするなど、地の文や引用を交えてリンクの推奨が何度も繰り返されている。

自分はHPの下部メニューという位置付けで適当にやってきたので、これまでこういうことをちゃんと考えたことがなかったが、なるほど、トラックバックとリンクをセットにすれば、読者は上流から下流へ下流から上流へと双方向に辿っていくことができる。その利点は理解できる。

しかし、それをマナーとして推奨することには違和感を覚えた。スパムが運営者にとって迷惑であったり、内容的に関連性の乏しいトラックバックが読者にとって迷惑だったりするのはわかるが、リンクを張らないことがどうしてマナーにもとるのか?

もし、それが礼儀正しいトラックバックのあり方だというなら、ココログの機能として、トラックバック設定時にトラックバック送信先へ自動リンクするオプションが用意されているべきではないか。そもそもココログに限らず、ブログの基本仕様として、今のようなトラックバック機能ではなく、「自動相互リンク機能」のようなものが開発されるべきだったのではないか?・・・現実には、そうなっていないのは、トラックバックを生んだブログカルチャーと@niftyのメンタリティにズレがあるからではないかという気がする。

それでは、「リンクがマナー」という発想はどこから出てきたのだろう? トラックバックの送信は、送信先から自分のブログへ強制リンクを張ることだから、おそらく「リンクは、リンク先への恩恵」という認識(私もこの認識が正しい場合は結構あると思う)に基づいて、相互リンクをしなければ、互恵性の規範を逸脱するという考えが出てきたのだろう。

互恵性自体は動物にすら見られる社会的儀礼だが、この規範がリンクを要求しているとしたら、規範への要求が強く働きすぎているという感じがする。当ブログで言えば、この記事の3つ前の記事「解けない謎(『ケルベロス第五の首』)」には、珍しく現在のところ2つもトラックバックが付いているが、それらの送信元のブログからのリンクは今のところ見当たらない。だが、私は別に腹が立たない。なぜなら、私自身は2つのブログの運営者のためになんの努力もしていないからだ。なるほど、彼らはトラックバックを送ることで私のブログから恩恵(無論、人気ブログではないので、微々たるものだ)を受けたかも知れないが、そんなの、見返りを期待するほどのことだろうか?

アフィリエイトなどが流行って、リンクのもたらす損得に敏感になりすぎているのか、あるいは、かつて礼儀正しいと言われた民族独特のメンタリティの現れなのかもしれない。

なお、誤解のないように付記するが、リンクを「マナー」として推奨することに違和感を覚えているだけで、今後、トラックバックを送信する際は、自分なりの判断で必要性を感じればリンクしていきたいと思っている。各自がその都度、必要性を判断すればよいだけのことで、マナーと呼んで半強制化するようなことじゃないだろう。

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CalLogとデジオ

最近話題のパーソナルな情報発信のためのWebツール2題。

■「CalLog」は、空いた時間に携帯電話でちょっと書いては送り、Webにログを貯めていく新感覚の日記。
別にケチを付けるつもりは毛頭ないけど、デザインを見て、私は強い違和感を覚えた。こういうデザインをした人、そしてこれを受け容れられる人は、どこか時間感覚が決定的に自分とは違っていると思った。「CalLog」の「Cal」は「Calendar」のことなのだが、カレンダーというよりもカウンターのごとく日付が並んでいる。年も月も日もすべて均等な文字サイズで、2004年11月10日なら「041110」というように日付が表記されているのだ。そして、ここには曜日の表示がないから週サイクルという感覚もなく、均質な時間の流れが綿々と続いている感覚なのだ。機械的なカウントアップには死の匂いすら感じてしまう。10代、20代の人は、こういう時間表現をクールと感じるのだろうか? 不気味だ、とオジさんは思う。

■「デジオ」は、自分でラジオパーソナリティを気取ってお喋りを録音して、それをWeb上にMP3ファイルとして置いていく、音声ブログ的表現手段。
「デジオ」の「デ」はデジタルの「デ」ではなく、「でっちあげ」の「デ」だという。だからスペルもde-dioなのだ。Web上に一般人たちのHPが怒濤のように無数に立ち上がった頃、マスメディアで言論を担う人々のテキストばかり読んできたそれまでの感覚が大きくシフトするのを感じて興奮を覚えたものだ。しかし、あまりに氾濫してきて慣れてくると、読む側の興味はテキスト止まりになって、テキストの向こうにいる無名の書き手にまで想像力が及ぶことは余りなくなってきた(少なくとも私はそうだ)。しかし、「デジオ」には肉声の生々しさがある。まったく知らない、顔も見たことのない人なのに距離感が圧倒的に近いのだ。この感覚がとても新鮮。

もうひとつ、テキストの情報発信と違うのは、ブログなどを書く行為は、自分だけのために日記やメモをPCに打ち込む行為に、作業としては非常に近い。そのため、慣れてくると(そして当サイトのように不人気サイトままにでいると)、他者へ向けて情報発信しているという感覚が次第にあやふやになってくる。しかし、「デジオ」の場合、マイクに向かって話すという作業が必要になるから、発信者はかなり自覚的にならざるをえず、その人の考える面白さが強烈に追求されることにつながる(それがはなはだ気色悪いものになってしまうケースもあるのだが)。また、(すべてのデジオ制作者が採用しているわけではないが)「ラジオ番組」というモデルがあるので、テーマ曲、冒頭の挨拶、喋り方、ジングルの挿入など、ゴッコ感覚に溢れている。その辺もまた、「デジオ」が奇妙な味わいをもっている理由だろう。(音声だからブラウズに時間が掛かるのが難点。まずは、タナカカツキの「デジオナイト」や「デジオ女学院」の最初の数回、18回目までの「デジオ番外地」辺りを聞いてみるといいかもしれない。)

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