神村恵カンパニー公演『山脈』のアフタートーク

アフタートーク(こまばアゴラ劇場、2月3日)で、舞踊評論家の武藤大祐さんが神村さんの相手を務めた。このトークのお陰で出演した5人のダンサーのうち誰が神村さんなのか判ったし、これまで数年間(5,6年?もっとか?)、Webに書かれた文章を折に触れて読んできた武藤さんがどんな人なのかも初めて知った。そんなわけで私は対談の両者に興味が湧いていたのだが、このトークでは公演者よりも評論家の方が中心に喋ったので、後者のお話が印象に残った。面白かった点を2つメモ:

1.「太った舞踊評論家」宣言?
冒頭で、武藤さんは自分がとても太っていて、そのために自分の呼吸が荒くて睡眠の際に気になってしまうほどだと、インパクトのある告白をする。そうしたことから、「世界の中で自分の体が出っ張っている感覚。過剰な感じ」を自分の身体に対してもっていると言う。私はダンス公演を観るとき、そのときの身体的コンディションの影響が無視できないことを常々感じていた。そういう話はよく公演を観る知り合いとの間でも出るし、誰かが同等の主旨を書いているのをどこかで読んだこともある。「疲れていると集中できない」という問題以上に、観客の身体はダンスを観るときに無視できないファクターになっているのではないかと思う。集中できないのは困ったことだが、観客の個々の身体の状態や記憶などによって公演の体験が変わってくることは、むしろダンスという芸術の可能性に関わる重要なテーマである。おそらく、武藤さんはそうした問題意識を踏まえて、自分が「太った舞踊評論家」であることを最初にアピールしたのではないか。彼は自らを「体フェチ」と呼んだりしていて、実際、彼の文章からは私には認知できないようなダンサーの身体の違いに対する繊細な感性をもっていることがうかがえるのだが、そのことと彼が太っていることは関係があるのでは?と冒頭の語りを聞いてハッとさせられた。よく、ダンスを理解するためには自らも踊ってみないと判らないと言われたりする。バレエの技術を語る前に、教室に入門してみろという説がある。そのようにダンサーの身体に自らの身体を近づけていくことも一つの道だが、批評者のポジションはそればかりが正解ではなかろう。真逆もアリだ。私は自分が知っている十名くらいの舞踊評論家の身体を思い浮かべてみたが太っている人は一人しか思い浮かばなかった(太った演劇評論家なら何人も浮かぶのに!)。これまで考えてもみなかったが、現在、舞踊批評の言説が痩せた人たちによって独占されているとしたら、「太った舞踊評論家」というポジションは案外、重要かもしれない。「過剰な感じ」から生まれる繊細な感性が批評の言説を豊かにするだろうし、痩せた身体による鑑賞体験のみが特権化されてはならないからだ。

2.日常における行動と環境変化
トーク中盤では、「日常におけるささやかな身体的快感が大事で、そうしたことが生活に潤いを与える」と主張していた。自動ドアに向かって歩いていき、ちょうどドアの前まで来たときにタイミング良く開いて、止まらずに通過できたときの快感。あるいは、信号のある横断歩道で同じようにタイミング良く信号が変わって、立ち止まることなく横断できたとき、といった例が挙げられた。どちらも「行動と環境変化の同期」ということかと思うが、こういうものがダンス的なのだ、と彼は言う。私は「●●ってダンス(的)」という物言いが嫌いなのだが、この指摘は面白いと思った。自動ドアの例も信号の例も、どちらも誰もが日常的に経験していることで、あちこちでネタにされたりもしている(彼は『R25』誌で読んだと言う。私はTVでダウンタウンが「気持ちの良いこと」として実演するのを見たことがある)が、それをダンスと結びつけて語った例は知らない。まさに「太った舞踊評論家」の面目躍如(と勝手に思った)。踊っているダンサーにとって、環境(=空間)に意識を配ることは非常に重要である。自らが動くことで刻々と変わっていく空間を絶えず意識しながら踊っている。ダンサーの空間への意識が、観客にダンサーの小さな身体がその何十倍もある舞台空間を支配しているかのように感じさせることを可能にするし、空間の変容を体験させる力も持っている。ダンス鑑賞の快楽の一つに、そうした空間に対するイリュージョンの体験があるのはまず間違いないだろう。などといったことを考えれば、自分の運動によって環境が変化した(ドアが開くことはまさに空間の変化だ)かのように因果関係を錯覚する体験は、踊っているダンサーの体験に近いし、自らは踊らない観客がダンス鑑賞から快楽を引き出す際の一つの参照項となる体験になりそうだ。

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まことクラヴ部活動報告会「シカク」

そのうち時間が出来たらちゃんと文章化して、などと寝かせておくと、そのまま書かずに忘れてしまう。そうやっていくつもの公演をやり過ごしてきた。ので、ホントにメモ的にでも書くことにした。


恐ろしくシニカルである。彼らはシニカルにならざるを得ないと考え、そうであることを楽しむ道を示そうとしているのだろうか? 本当にそこに進むべき道などあるのだろうか?

1-0
身体の生々しさが消去されている。
1-1
遠田誠は、私にとってはとても生々しい独自の身体を感じさせるダンサーだった。伊藤キム作品(例えば《ANATA》(1996))やセッションハウスでのグループ公演『「未来」あたりの。』で上演した彼の作品《a(b+c)》(2000)などでは、彼の身体をとても生理的に感受させられた。また、江戸川卍丸だって斉藤栄治だって、個性的な男臭さを感じさを期待できるようなダンサーに思える。それが、どうしたことか、そうしたものを消す方向が志向されていて、ほぼ無臭化を完了させている。まことクラヴの単独公演を観るのは初めてだが、《ニッポニアニッポン》(2004)でスーツ姿やジャージ姿の彼らを観た時に、この変化に気づくべきだったのかもしれない。
1-2
そうした傾向の最もわかりやすいのは、アップテンポな打ち込み系の曲に合わせて平行移動しながら単純なパターンを機械的に反復して踊るシーンで、ディスプレイの中のキャラクターを模しているようだ。後半の椅子を使ったシーンなどを観ても、身体の過剰さをキャラとしての過剰さに置き換えている。
1-3
どうして薄っぺらで記号的な身体を目指すのか? これは一種の消滅願望だろうか。無限の自己否定すら感じる。

2-0
ウエルメイドが虚無的に目指されている。
2-1
全体の進行や手順がきめ細かく演出されている(例えば、初めの方と終盤にそれぞれ一回ずつ光るフラッシュ)。そして、リアルタイム映像、映画(車に追われる遠田)、スチール画像(団地風景)の活用、生演奏による音楽など、とても手が込んでいる。さらに、舞台の袖や裏(エレベーター)までも最大限に使おうとしている。素材を最大限に生かし、手際よくプレゼンテーションするウエルメイドなエンターテインメントを目指そうとしているかのようだ。それは、彼らに対してもっていたイメージ(それは主として輝く未来のメンバーとして形成されたものだが)とミスマッチだし、公演を観ていても、彼らがなぜそうした方向を目指そうとしているのか理解できない。

2-2
というのも、手際ばかりニートに並べられたネタ自体は、およそウエルメイドでもニートでもないからだ。私の観た回で客席が湧いたのは、中森下真樹菜ともう一人の男性(忘れた)が服に番号札を大量につけて、ジャラジャラさせながら踊るオバカなネタと、長井江里奈が縄跳びを使って、表情で笑わせるネタだった。
2-3
だったら、どうして2-1のようなことが志向されているのか。やはり不可解。もしかすると、彼らの「良い公演のモデル」がそういうものだからだろうか? 内容の虚無的なナンセンスさにも関わらず2-1のような志向によって無毒無害をアピールして観客を安心させることが目指されているのだろうか。そして、彼らの目的は観客にウケること以上でも以下でもないのか。
2-4
彼らが本気で上記のようなことを目指しているとは、にわかには信じられない思いだが、評論家・武藤大祐氏もブログにこう書いている

ここでは環境から演繹された規則にひたすら身体を馴致していく行為が、対象化されることもなく、むしろその行為自体に他ならぬ「コンテンポラリーダンス作品の成就」という「夢」のようなものが賭けられているように感じられる。

もしも、本当に彼らがそんな「夢」を描いているとしたら、そしてさらに、客席でもその「夢」が共有されているのだとしたら・・・・ 私たちはコンテンポラリーダンスがエスタブリッシュされたジャンルなどではない、ということをもう一度思い出す必要があるのかもしれない。


話は飛んで、極めてプライベートな感想になるが、2のようなものを前にして抱く印象は、以前から巷に溢れている和風ダイニングバーのチェーン店を利用した時の感覚に似ている。
なんというのだろう、薄暗い室内に、インテリアや食器、メニューなど、パッと見、料亭的なものを連想させるアイテムがちりばめられている。ニートでお洒落、現代風のひねりもある。だから、「満足感を与えてくれそう」という先入観が形成され、しかも値段も高くないから、ついつい利用してしまうのだが、しかし、出てくる料理を口にすれば、それらは決して良い食材を使っているわけでもなければ、優れた味覚で調整されているわけでもない。店のインテリアやテーブルの上の小物も冷静に見れば書き割りのようなチープさがある。
店の雰囲気のパッと見の豪華さと実質の薄っぺらさ--問題は、そのギャップを経験した後でも、私はそうした店を繰り返し利用していたということだ。それは、そうした店以外に手頃な値段で仲間と入れる適当な店を簡単には見つけられないという事情が大きい。つまり、消費の選択において、上っ面が口当たり良ければ、(情報)アクセスの優位性がサービス自体の実質的な価値に勝ってしまうということ。この傾向は和風ダイニングバーだけに限らず、最近の日本社会に蔓延してきているように感じる。誰も信じていない「これは素敵なもの」という記号が、アクセス優位性によって跋扈する社会。そして、そうした社会に暮らす私たちが消費するエンターテインメントとして、今回の公演はもしかしたら、相応しいのではないか、という気もするのだ。論理に飛躍があって申し訳ないが、それが私の直観的な感想である。舞台のシニカルな気分に感染してしまったのかもしれない。
(こまばアゴラ劇場、5月7日)

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チェルフィッチュダンスのこれから(岡田利規《クーラー》)

4回目を迎えた「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」(7月9日、10日)の会場がシアタートラムから世田谷パブリックシアターに移り、今年は私もようやくチケットを入手することができた。ところがタイミング悪く本業がビックリするほどの忙しさ。仕方なく1日目のチケットは知人に譲り、2日目も最低限の時間を客席で過ごして、審査結果も聞かずにソッコーで仕事に戻った。最後の 《kNewman》 など「こんなもん観ている場合か」と思えてならず、席が通路から離れていなかったら、中座していたと思う。疲れている人間は、繊細なところに美徳のある作品は楽しめない。だから、昨年10月のSTスポットでの上演は楽しめた新鋪美佳 《るる ざざ》 も、今回は無感動に眺めるだけだった。

そうした中で、こちらのスタミナのなさ、集中力の低さを物ともせずに引き付けて止まなかったのが岡田利規 《クーラー》 だ。この作品は昨年8月にパークタワーホールで一度観ているので2度目だが、2度目になると初めて観た時(チェルフィッチュ自体初めてだった)の「なんじゃこりゃ!?」というインパクトはもうないし、「警察呼んでいいんじゃないですか」などの発言のバカバカしさに対する免疫もできてくる。そうすると、喋り(依然として、喋りが可笑しいのはいうまでもないが)やデフォルメされた動作といった、要素ごとの可笑しさより、舞台の上に立つパフォーマーの存在そのものがそこはかとなく可笑しいことに気づく。言い換えれば、二人の身体が面白かったのだ。そんなわけで、初見時は、ダンスとして評価することに積極的意義を感じなかったのだが、今回は、これはダンスとして評価してこそ面白いと考えた。

今年の『現代詩手帖』3月号に「言葉が身体を動かす」というようなことを岡田本人が書いていたのを読んだけれど、《クーラー》を見ていると、「言葉」というより「コミュニケーションの場」が身体を動かしているのだといった方が自分には的確に思える。言葉を想起する時に、その意味を再獲得するプロセスが身体を駆動するといったような、発話者だけに閉じられた現象とは考えにくいからだ。誰もいない部屋で、与えられた台詞を一人で音読した場合、身体はほとんど動かないのではないか(*1)。

《クーラー》のマキコさんと同僚の男性の身体を駆動させているのは、目の前に他者がいて、その人の前で語り手を演じなければならない、あるいは聞き手を演じなければならないという状況ではないか。そうした時に感じる、居心地の悪さや面倒くささ、あるいは自分の感じている気分と自分の行っている表現のギャップといったものが、どうにも身体をじっとしていられなくさせている、そんな風に考えた方が、自分自身の経験に照らしてもしっくりくる。

客席でぐったりしていた私の胸ぐらを掴んだ《クーラー》の面白さは、なによりも方法の新しさである。そこで、この新しい方法を「チェルフィッチュダンス」と呼ぶことにして、チェルフィッチュダンスの面白さ・新しさのポイントを挙げてみると、とりあえず浮かぶのは次の3点だろう。

  1. 従来のダンステクニックに全く依存していない
  2. コミュニケーションの在り方という切り口で、今日的な身体を可視化している
  3. パフォーマーの主体性や振付家の表現よりも、場に駆動される身体が前景化している

ところで、そもそも「チェルフィッチュダンス」はダンスなのか? あれは振付なのか?(*2)という問題がある。それでは、「ダンスとは?」「振付とは?」ということになるのだが、ジャンルを定義によって規定することは、ジャンルを固定化し、発展を阻害するだけである。かといって、「これもダンス、あれもダンス」と無節操に見立てをやれば、言葉がどんどん曖昧化して力を失っていくだけだ。新しいものを既存の枠組みに回収しようとしてはいけないが、既存のダンスと関われない行為をそう呼んでもしょうがない。それをダンスと呼ぶかどうかの基準は、「それをダンスとして評価した場合に、既存の枠組みに有意義なインパクトを与えるかどうか」を考えればよいと思う。

チェルフィッチュダンスの場合はどうか。これはまだ思いつきなのだが、日常的動作をサンプリングしたようなポストモダンダンスと舞踏との間に、チェルフィッチュダンスを配置してみると、面白いのではないかと思う。

まず、上述のようなポストモダンダンスとの比較だが、チェルフィッチュダンスの違いは、抽出されている動作が、「歩行」や「物を掴む」などといった主体的な行為の部分から切り取られた動作ではないということにある。そうではなくて、無自覚な運動がサンプリングされているのだ。この比較をヒントにして、サンプリングした運動から意味を剥ぎ取り、構成要素として扱うポストモダンダンスの方法と、場が誘導する身体の無自覚な運動に注目するチェルフィッチュダンスのアプローチを組み合わせることが考えられそうだ。《クーラー》において取り上げた対話の場を、別のさまざまな相互作用的なシチュエーションに置き換えていくのだ。たとえば通勤電車という場における身体たちを取り上げるとか。社会の中の主体としての個人でもなく、集合的無意識を露わにする個体でもない。その場その場の、消極的にであれ積極的にであれ場を共有する身体間の関係に応答して動く身体としての個人・・・チェルフィッチュダンスは、ポストモダンダンスまでのダンスが析出できなかった後期近代的な個人を見せてくれるのではないかという予感がする。

一方、舞踏との比較では、舞踏が内発的にダンスが導出されることを重視する傾向が強い(舞踏がすべてそうだと言うのははばかられる)のに対して、チェルフィッチュダンスは、身体と身体の関係性に焦点が当てられている。そこで、身体の内部から身体間の自発的な応答へと重点をズラすことによって、舞踏からの発展(舞踏の発展ではない)を考えていくことができるかもしれない。


以上は思いつきだが、チェルフィッチュダンスの秘めている可能性は、確かに大きいと思う。ただし、《クーラー》はとば口のような物で、まだいろいろと考えるべきことがある。身体だけを見せていくなら、劇場でやらない方が良いだろうし、舞台芸術として練り上げていくなら、照明・音楽・空間の使い方などはこれからの課題だろう。どちらの方向性に進むにしても、チェルフィッチュダンスを、チェルフィッチュ演劇の副産物に止まらせておいて欲しくないし、岡田にダンサーへの振付を依頼するようなことは止めて欲しい。チェルフィッチュ演劇の大きな特徴である「伝聞」や「話法の多重化」といったセリフ上の仕掛けとは別のところで発展していくべきだと思うし、ダンスカルチャーの規制下にある身体とも無縁のところで、新しいダンスを始めて欲しいのだ。もし、彼が演劇の方で忙しくてダンスにまで手が回らないというなら、他の人が彼の仕事を引き継いでもいいと思う。私としては、コンテンポラリーダンスの名の下で活動してきた人たちが、チェルフィッチュダンスに影響されて動き始めることも期待している(単なる真似じゃこまるけれど)。


(*1)発売された『三月の5日間』(白水社)で試してみると良い。特に気持ちを込めたりせずにダラダラ読めば、身体はほとんど動かないだろう。気持ちを込めると動き始める。私が台詞によって生み出される語り手となったとき、同時に私は聞き手の存在を無意識のうちに想定しているのだと思う。語るという行為は、架空のものであれ聞き手に向かうという意識を必然的に含んでいるのではないか。

(*2)審査委員長が「《クーラー》は振付ではない」と言ったとか言わないとか。仮に彼がそう言ったために岡田利規が落選したのだとして、もし私が岡田だったら、「そんな基本的な理由で落とすなら、そもそも最終選考に残すなよ!」とタンカを切りたくなる。審査委員長の振付観を非難するつもりはない(無論、賛同もしないが)。非難すべきは、この賞のポリシーのなき運営だろう。せっかく大企業がお金を出してくれているのにもったいない話である。(キツイことを書いてしまったが、すべては岡田利規落選に上述のような経緯があったとしてのハナシである)

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伊藤キムと土方巽(《禁色》)

2005年版《禁色》と銘打たれ、土方巽三島由紀夫の名前と共に宣伝された伊藤キムの新作《禁色》 公演。見に行った6月9日は、世田谷パブリックシアターに立ち見が出るほどの大盛況であった。彼の公演には珍しく、土方の《禁色》 (1959)公演に立ち合ったのではないかと思われるような年齢層の客も少なからずいる。そして、業界人濃度も高いようだ。普段、他人の公演は余り見に来ないと思われるようなダンサーも会場で見かけた。おそらく、業界関係者や年季の入った舞踏ファンの注目度は相当高かったのではないか。

しかし、始まってみると、冒頭の全裸ダンス(アフタートークでの伊藤の発言によれば、局部は特殊メイクをしているという)には最初あっけにとられたものの、その後は、これがそれほどに注目されるべき公演なのかと首を傾げた。というより、《禁色》というタイトルや公演前のインタビュー(*1)での「舞踏に活を入れる」発言などは完全にフェイントだったのではないか、真に受けた自分がバカだった、と公演が進行するに連れて思うようになった。

ところが、公演が終わってアフタートークが始まると、司会を務める榎本了壱がこの公演を大真面目に受け止めていることがわかった。伊藤《禁色》は、土方《禁色》の衝撃(鶏を絞め殺す)や三島《禁色》のスキャンダル(男色)をどう乗り越えたか、みたいな話の進め方になっていたのだ。伊藤自身は榎本の煽りをなんとかはぐらかそうとしているように見えた。私は伊藤が最初からスカすつもりで《禁色》というテーマを選んだと思えてならない。あえて言うなら、土方を茶化してみせること自体が伊藤なりのスキャンダルへの挑戦だろう。そして、後からあの公演を思い返してみれば、あれはやはり伊藤らしい、「土方への今日的な応答」と言えるものだったのではないか、という気がするのだ。どうしてそう考えられるのかを、以下に説明を試みよう。

その前に、伊藤が土方を意識したかどうかはともかく、私にはあの舞台が、伊藤がこれまでの自分の舞踏家(?)としての歩みを振り返った作品であるように見えた。冒頭、素っ裸の伊藤と白井剛が、両手で前を隠しながら爪先立ちでチョコチョコと壁に沿って歩み出てきた時、まず想起されるのが彼の出世作《生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか?》 (1995)である。そして、”チンポコダンス”(@榎本)の後、服を着てから最初のシーンでは、二人が、それぞれ舞台の奥から手前に伸びる光の廊下を往復しながら踊るが、これは《3SEX》 (1998)にあったパターンである。毎回、客席に向かってやってくるたびにどのような異なった印象を作るか、あるいは何かやると見せかけて何もしない・・・そんな駆け引きをしながら、廊下を往復しながら加速していく進行の仕方は、すでに記憶も薄らいではいるが、だいたい同じだったと思う。伊藤の最初のソロは、舞台を斜め手前へ少しずつ歩みながら、つま先立ちになり天を希求するが、これは《ANATA》 (1996)を思い出させたし、後半のデュオシーンにおける、照明で作られた四角い回廊を二人がうろうろするところは、榎本も指摘したように《激しい庭》 (2001)を思わせる。

これらは自作の引用とまではいかないが、こういうシーンがいくつもあったのだから、やはりこれは伊藤にとって区切りとなる作品だったのだろうな、と思った。そして、こうして振り返ってみることで、彼がシーンの創作に当たって、明確で固定的な配置を設定することの多い振付家であることを印象づけられた。シーンごとに、決め事や可動域を設定して、行動を限定するのである。

ところで、たとえ《禁色》がフェイントだとしても、伊藤と舞踏の関係はやはり気になる。浅学ながら、舞踏の明確な定義を説明してくれる文章に出会ったことがない。仕方がないから、土方の言葉を拾い読みして--土方の言葉はシュールレアリスムの詩のようで、私にはよく理解できないのだが--管見を述べれば、ダンサーが動きの様式や技法を学ぶことで踊るのではなく、自分の肉体の中にいきなりダンスを発現させる何かを発見して、それを表出させる、あるいはそれに肉体を明け渡すことではないかと、とりあえず私は考えている。少なくとも、土方は「ダンスを発現させるものは各人の内に存在する」と信じているように思われる。私はこの考え方を批判するものではないが(そもそも私の勘違いかも知れないし)、中立的な呼び方として、この場ではそれを「舞踏イデオロギー」と暫定的に呼んでみる。

舞踏公演を見に行くと、しばしば、ダンサーが10分も20分もほとんど動かないようなシーンをぶち当たるが、これなど、舞踏イデオロギーを愚直に遂行している現場に立ち合っているのだと思う。正直なところ、そうしたシーンに眠くなってしまうことがある。私に舞踏を見る目がないせいかも知れないが、「舞台上のダンサーがそもそも人に見せて面白いだけのダンスを体内に宿してなどいなかったのではないか?」と疑ってしまう。つまり、舞踏イデオロギーは選ばれた者にだけ有効なのではないか、ということだ。これに対して、舞踏イデオロギーの立場から批判するなら、そのダンサーはまだ自分の肉体の中にダンスを発現させるものを発見できていない、ということになろう。そもそも存在しないのか、まだ発見に至っていないのか、この二つを判別することは原理的に不可能だ。

さて、伊藤は公演前のインタビューで「舞踏は本来自分の体に手を突っ込んで内臓をえぐり出すような作業」と語っているが、彼も、自分が舞踏家であるためには、この舞踏イデオロギーを自分のイデオロギーとすることだと考えているのではないかと思われる。土方は澁澤龍彦との対談で「自分の肉体の中の井戸の水を飲む」「自分の体に梯子段をかけて降りていく」というような言い方をしているが、伊藤の発言は、同じような創作姿勢を指しているのだろう。

では、伊藤は「自分の体に手を突っ込ん」だ結果、どんなダンスを生み出したのか。《禁色》の伊藤の2度目のソロ(モーツァルトのクラリネット協奏曲で踊ったもの。同じ曲が使われていたこともあり、勅使川原三郎《アブソリュート・ゼロ》 を思い出した)を思い返してみて、彼は自分の肉体を探索した結果、そこにはダンスを発現するようなものは何もないことに気がついたのではないか、と私は想像する。

私はかつて、90年代後半の伊藤のダンスについて、「身体=自分自身」の発見劇だと書いた。(参照:今となっては考え直したい箇所もあるが、伊藤キムについてのところだけ読まれたし)では、その自分とは何者なのか? 改めてそのような問いを立てて、自分の身体を探索した結果、そこには答えがなかった。不安げな前屈みのポーズを固定したまま、一方の軸足で回転して180度向きを変える--彼の作品にしばしば登場するこの印象的な振りから、「深く自分の内に沈降することなど無意味だ、この舞台の上をうろうろするしかないのだ」という声を聞く思いがする。

誤解のないように断っておくが、私は「だから、伊藤キムはダメだ」と言うためにこれを書いているのではない。むしろ、その逆である。私の想像では、彼は「自分の内を探したけれど何もなかった」ということを発見したのだ。そして、「自分の内を探したけれど何もなかった」ということを踊ったのだ。つまり、彼がやったことは、「舞踏イデオロギーのメタ的な変奏」というべきものではないか。念のために書き添えるが、彼が舞踏イデオロギーの創作プロセスを説明的に演じて見せたと言うことでは全くない。自分の内にダンスを発見した結果が舞踏であるとするなら、内部を志向しつつ「発見できなかった」という状態が彼のダンスであるという意味だ。

そのような彼の”舞踏”は、舞踏イデオロギーを素朴に信じて、私を退屈させる舞踏ダンサーたちよりも、私にとって遙かに好ましい。《禁色》を見終わって、何とも言えない空虚さを感じたが、それは自分に無関係な空虚さではないように思えた。どのように空虚であるか、その空虚さの詳細を味わわせてくれる体験を送り届けられたような気がする。

これまで、伊藤の創作の舞台裏を推理するかのような書き方をしてきたが、実際に伊藤本人がどう考えたかということは、実はどうでもよい。「舞踏イデオロギーのメタ的な変奏」と解釈できる舞台があり、空虚な体験を与えてくれたということが、私の見出した伊藤《禁色》の意義である。

彼がシーンごとに固定的な配置を好む傾向があるのは、おそらく内部をダンスの拠り所にしないことと無関係ではないだろう。内部をダンスの拠り所にしないのは、コンテンポラリー・ダンスにおいてごく普通のことだが、にもかかわらず、自己探求を止めるわけにはいかない、というのが伊藤のダンスなのだ。だから、まず外部環境が与えられ、その中で「自分」というものが形をなしていく--それは、きわめて今日的な個人の存在様式のように思われる。


(*1)朝日新聞6月3日夕刊「三島の小説素材に新作「禁色」伊藤キム」

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ダンサーの身体を可視化する振付(松本大樹《7区》など)

このところ「なんでもあり」感の下、コンテンポラリーダンス・シーンが盛り上がっている。盛り上がるのは結構なことだが、実際のところ、日本のダンサーたちが「なんでもあり」で自由に踊れるようになっているとは思わない。従来のダンスカルチャーの規制から解放されたり、対抗する文化が勃興したというよりも、単に曖昧になり、不可視になってきたということのような気がする。

先日書いた勅使川原三郎《風花》についての文章で、振付とダンスカルチャーの規制の齟齬について考えた。ポスト・モダンダンス以降のダンスが行った一つの重要な取り組みは、それまでのダンスカルチャー(バレエやマーサ・グレアムのモダンダンスといったもの)を身体に対する規制として捉え直し、「日常の身体」というこれもまた個々の文化の規制の下にある身体の隣に置いてみることであったように思う。その時、振付の意味も変わった--それまでの振付がダンスカルチャーの上での営みであったのに対して、ポスト・モダンダンス以降は、「日常の身体」を含むさまざまな規制の下にある身体を、それらの規制を意識化しつつ取り扱うことになった。そして、それ以来、ダンサーの身体をチューンナップするダンスカルチャーと振付の不可分性が自明ではなくなったのだと思う。

改めてそう考えた時、最近日本では、ダンスカルチャーの規制を振付との関係において意識化するような試みは、どこでなされているのだろうか? ということが気になってくる。以下は、この問題に対してアプローチする、粗雑な試みである。


■「再調教」よりも「編集」の振付
まず第一の問いとして、(かつての)勅使川原のような、自らの身体から生み出した身体技法によって独自のダンスカルチャーを打ち立てることで、ダンサーの身体と振付の関係の不可分性を回復させる存在はいるだろうか? と考えてみる。よく知らないが舞踏系にはけっこういるのかもしれない(代表的なところでは山海塾の天児牛大とか)が、もはやそうした関係は主流ではなくなっているように見受けられる。

その理由として二つ思いつくが、一つは演劇(小劇場?)業界同様に、コンテンポラリーダンスの方でもフリーエージェント化が進み、プロデュース制がカンパニー制を凌駕しつつあるから、ということが考えられる。

先日の縁もあり、『演劇人』19号掲載の大岡淳氏の演劇時評「ポスト・アングラの潮流を追って」を読んだら、だいたいこんな主旨の指摘が書かれていて、なるほどと思った。

三浦基や岡田利規などの公演を見ていると、演出家も俳優もフリーエージェント化の進む演劇界の潮流の中で、演出家は個別の俳優の肉体とは無関係に自己の演出様式を打ち出すこと、俳優はどんな演出もそつなくこなせることを目指しているように感じられる。こんな姿勢では、業界内での新規性を打ち出すことはできても、社会的なインパクトを生み出すことはできない。なぜなら、個別的な「肉体」に替わって抽象化(デオドラント化)した「身体」の横行する現在の社会の様相をなぞるに留まってしまうから。ならば、身体の交換可能性をグロテスクなまでにおし広げてみよ。
--大岡氏の主張を正確に捉えていないかも知れないが、私が時評から受けた示唆はそういうことだ。

ここで指摘されている演出家と俳優の状況について、(ハイアートの)ダンス業界での振付家とダンサーについて当てはまる部分はありそうだ。

ただし、演出家の在り方と振付家の在り方は違う。コンテンポラリーダンスでは、振付家は自ら踊ることが多く、その場合には踊る身体と振付の不可分性は、極めて幸福な状態にある。そこで、もう一つの理由として、そうした振付家=ダンサーが、他者の身体を調教することに自分の身体技法を積極的に活用しなくなってきたということが挙げられそうだ。

例えば、先日、井手茂太のソロ《井手孤独》(2005年5月26日~29日、シアタートラム)を見てきたばかりだが、彼は紛れもなくユニークな身体性とそれと不可分に結びついたダンスを作る人物だ。しかし、彼はイデビアン・クルーのメンバーに、非常に詳細な振付こそするものの、彼らの身体を再調教しようとしているようには見受けられない。むしろ、それぞれの身体の持ち味を生かそうとしている。

それでも、イデビアン・クルーにある種の統一感が見られるのは、井手の個性から派生したカンパニーのカラーによってダンサーが選別されているからだろう。去年の暮れ、森下スタジオでやった「ネクストネクスト5」で見た鈴木ユキオ《幸福の森の掟》には、そうしたカラーすら見つけられなかった。結成10年のイデビアン・クルーに比べたら、歴史がないから当然といえば当然だが、鈴木もまた見分けやすい特徴的な動きをする身体をもっているにも関わらず、起用されたダンサーたちは、彼の身体性の片鱗も共有しているように思えなかった。彼は、ダンサーたちの身体を規制することなく、極めて「編集的」な態度で振り付けているのだろうと想像する。

輝く未来からゾロゾロと才能を輩出した伊藤キムも、”ミニ伊藤キム”みたいなダンサーは一人も作らなかった。最近は、カリスマの下に集って、身も心も捧げて精進するようなスタイルは流行らないし、振付家の方でも、自分の身体から紡ぎ出した身体技法を、他者に移植可能な方法論へと練り上げていくべきものとは捉えなくなっているのだろう。各人の身体はいじらずに尊重し、編集する。あるいはトーンの合う身体が集う(珍しいキノコ舞踊団とか?)。

それはそれで結構なことである。では、そうやって編集される個々の身体、優れた振付家=ダンサーの下に集って、自らの身体性を突出させない諸々のダンサーたちの身体は、どのようなダンスカルチャーの規制の下にあるのだろうか? バレエ? モダンダンス? あるいはそれらがいろいろと淡くミックスした状態? それとも、もうこれと言ったダンスカルチャーなんてないのか?


■齟齬はむしろ可能性--松本大樹作品への違和感から
そこで、第二の問いとして、ダンサーが自らの身体をダンサーとしてチューンナップする過程で受け入れたはずのダンスカルチャーの規制を可視化するような戦略をもった振付家はいるだろうか? と考えてみる。

日本のコンテンポラリーダンス・シーンでの戦略という話からはズレてしまうが、去年上演された「安藤洋子×ウィリアム・フォーサイス」(2004年2月25~28日、世田谷パブリックシアター)は、そうした齟齬に満ちた公演ではなかっただろうか。安藤洋子がまず、これ以前のフランクフルトバレエの来日上演で見せつけられた”フォーサイスダンサー”の身体とはほど遠いものであった。フォーサイス本人がアフタートークで語っていたように、彼はそのことを承知で、彼女の身体の異質さに魅せられて彼女を受け入れたのだった。

また、《クインテット》を再演するに当たって、安藤と共に、Demond Hartという、これがバレエダンサーかと驚くほどに重量感の際立つダンサーを起用したのは、フォーサイスが、1993年の初演当時においてはギャビン・ブライヤーズの《Jesus' Blood Never Failed Me Yet》との相乗効果で終末感と演出できたこの作品を、今日、コミカルな方向へシフトしなければ、再演は不可能だと判断したからではないか(このことは以前にも書いた)。

あの公演は、手兵を率いてばかりもいられなくなったフォーサイスが、ダンサーの身体と自分のバレエとの齟齬を積極的に利用するという戦術に向かったと見ることもできるだろう。これを、「脱構築バレエ」の脱構築、なんて言ってみることも可能かもしれない。

もし、日本のコンテンポラリーダンス・シーンで、こうした方法が試みられたとしたら、それはどんな風な舞台になるだろうか? 安藤×フォーサイスのような例なら、イデビアン・クルーの公演に岩下徹が出演した《コッペリア》(1999年、世田谷パブリックシアター)などが思い出されるが、そのような了解済みの異質さを並置させるやり方ではなく、観客に「なーんか、ヘンだぞ?」と感じさせて、そのヘンな感覚を問いつめていくことが、ダンサーの身体が従属している規制を可視化することにつながるような舞台だ。

私がそこで思い出すのが、今年の始めにセッションハウス(2005年1月10日)で見た松本大樹振付による「大樹近作集2」だ。というよりも、この公演を見て以来、「なーんか、ヘンだぞ?」という違和感がずっと残り続けて、そののち、《風花》を見たり、大岡氏の時評を読んだしたことで書くことになったのが、このエッセイみたいな記事である。

ただし、あの公演の違和感は、未だにうまく分析できない。最初の《7区》という作品を見た時、振付や音楽や照明などの諸要素と、起用されたダンサーたち(若松智子、奥田純子、JOU、大塚啓一)の身体(とりわけ大塚啓一)との間に居心地の悪い齟齬を感じた。一言で言えば、「これはヨーロッパのダンサーが踊ってこそサマになるダンスではないか?!」と思わずにはいられなかったのだ。

そういえば、私たちはもう日本人がバレエやモダンダンスを踊るのを見ても違和感を感じない。それにはおそらくダンサー側の変化と観客側の変化の二つの理由があると思う。一つは、そうしたダンスカルチャーの規制をしっかり身につけたダンサーが登場するようになったため、振付と身体性の齟齬があるレベルで解消されたということ。もう一つは観客が日本人がそういうダンスを踊るのを見慣れたということ。

となると、《7区》における私の違和感の原因は、単に私にとって見慣れないものを見たから、という可能性もある。ところが、続く《PIPE#1(トリ)》という作品は松本本人のソロだったのだが、これには違和感を感じなかった。ということは、やはりダンサーの身体と振付の間に齟齬があったのだと思う。それがなんなのか、よくわからない。ただ、松本は素材の個性を生かすような編集はしなかったとだけは言えるだろう。彼はダンサーの身体とは無関係に自分の美意識にあった振付を作り、それを調達したダンサーたちに割り振った。その結果、《風花》的事態が生じたのだ。(*)

松本が、果たしてダンスカルチャーの規制を可視化するために、わざとやったのかどうかはわからない。おそらく違うだろう。はじめの頃、彼の公演に対して、私は違和感ゆえに否定的な感想を抱いていたのだが、こうして考えていくうちに、次第に肯定的になった。こうした事態を発生させることができるということは、現況では結構、貴重なことなのではないか? と思うようになったからだ。大岡氏の処方箋「身体の交換可能性をグロテスクなまでにおし広げてみよ」の一つの実践と見ることもできるかもしれない(もちろん、本人がそういうつもりかどうかは別の話)。

ダンスカルチャーが曖昧になり、複数の振付家たちの公演を渡り歩くダンサーたちの身体が見えにくくなっている(単に私の眼力がないだけかもしれないが)。彼ら(彼女ら)の身体を可視化する一つの道は、齟齬をきたすような振付でダンサーが受け入れた規制をあぶり出すこと。もう一つの道は、振付家が個々のダンサーの身体性を発見して、それを単にキャラとして扱うのではなく主題化するように編集することではないか。


(*)たまたま居合わせた舞踊評論家の話では、松本大樹は、身長の高い女性ダンサーを揃えようとしたのだという。動きの質など、ダンスには重要と思われる他のパラメーターに対して身長を優先させたことが、このような面白い結果を生んだということか。

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横浜ソロ×デュオ<Competition>+ソロ×デュオ部門1日目

ソロ×デュオ部門は、30日との二日間で行われるコンクールなのだが、残念ながら、1日目しか見られない。なので、1日目のみの感想を速報的に書く。だいたい、公演を見たその日のうちに勢いで書いてすぐに公開すると、後で後悔することが多いが、まあ、いいや。

岡本真理子[スプートニクギルー]。彼女はここ3年くらい、このホールや森下スタジオ、STスポットなど登竜門の常連だが、その先へはまだ行けそうにない。すぐに退屈してしまうからだ。30分近い上演時間で、彼女の動きのだいたい半分くらいは、冷蔵庫を開ける/閉める、物を取り出す/仕舞う、ブーツを履く/脱ぐ、床の上で座り位置を直す、糸をたぐり寄せる、といった目的行動で占められているような気がする。その動きはヴッパタール舞踊団のダンサーのように洗練されているわけでもなく、チェルフィッチュのようにイマドキの身体からの抽出・誇張が見られるわけでもない。ごくありふれた、彼女が自分の部屋でやっていそうな動きにしか私には見えない。そうした身体表現とは無縁の日常の身体から、ダンス的なものが仄かに滲み出てくる瞬間の面白さみたいなものを狙っているのだろうか? 冷蔵庫の上に座って足をぶらぶらさせる時の足首の角度の変化とか。ブーツを履いた勢いでつんのめるようにばたんと倒れてみるとか・・・しかし、そこにはスイッチを切り替えるような態度の変化があって、意外に繊細さに欠けると私は思うのだが。彼女の舞台にはいつも小さな物(しばしば、それは前の方の座席に座っていなければ、よく見えないようなものだ。この舞台に対する無頓着さも好きになれない)がいろいろと散在している。おそらく、それらの小物群と彼女の身体の関係性が、作品の意味を主に担っているのだろうが、しかしそこからファンタジーがいっこうに立ち上がっていかないのは、観客である私と趣味が合わないせいばかりではなく、彼女の身体に強度が足りないからだと思う。

先週見たMOMIX[オーパス・カクタス] には、それがもの凄くあった。舞台装置らしき物はほとんどなかったけれど、ダンサーたちの身体からファンタジーが広がっていった。一人のダンサーの足ともう一人のダンサーの腕が見事なユニゾンの動きを見せ、四つんばいで後ろ向きに進んでいるダンサーが前に進んでいるような動きに見え、ごく自然に、身体の常識的な見方から解放されたのだし、一人のダンサーに複数の動く主体を、二人のダンサーに一匹の生き物を幻視してしまう興奮があった。そういう点では、三好絵美[sinking float ] は一人MOMIX的と言いたくなるような、身体を見る愉楽に満ちている。MOMIX的エンターテインメントではあるけれど、それでいいのかな?という若干の先回りした疑問も含意させたコメントではあるが。ともあれ、今日は三好が一番だった。この作品は2003年に「踊りに行くぜ!」ですでに見ているので、これを上回るような穫がなかったことは残念だ。

シン・ソル[逆へ] は、身長もありプロポーションの美しいダンサーではあるが、前半舞台で踊ったものを後半スクリーンで逆廻し映像で見せるというワン・アイデアだけ、というのには唖然とした。これで本選に来てしまったというのは、予選の見識を疑いたくなる。それとも外国人枠みたいなものを設けているのだろうか? 長谷川達也[バランス] は、牧阿佐美バレエ団のプリマ、田中祐子とのデュオというキャスティングに驚くが、その意図がまるで読めない作品で、空回りしているようにしか見えなかった。

濱谷由美子[スピン] は、床からビリビリと振動が伝わってきそうな強烈なビートが18分間ノンストップで響き渡る中、二人の女性(共演:椙本雅子)がこれでもかと踊りまくり、それっぽい振り(コンポラ風の振り)が次々と「ぶっちゃけ、これってアホでしょ?」と身も蓋もない状況へ放り込まれていく。時折、客席に怪しげな視線を送ったり、勅使川原の「ケシオコ」をパロったような動きをしたりして、もう、なんだか。実に潔いのだが、額縁を与えるようなシーンを付け加えた方が、判りやすくなると思う。客席にビートに合わせて座ったまま踊り出すような”第三のダンサー”が登場したりしていたので、誤解されているのではと心配になった。セオキョウコ[セカイニタッタヒトリノニンゲン] 。青春している。こういうセンチメントは嫌いじゃない。でも、一般の劇場公演を狙うには早過ぎると思う。

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金森穣「black ice」への小言

稲倉HPの方に、先週末に新国立劇場で見たNoism04の公演「black ice」(金森穣)について感想を書きました。

芸術監督としての務めは立派に果たしたと思う。偉い。でも、振付家としては一歩後退ではないかという気もするのだ。そこで今回は、金森に期待する者の一人として、あえて残念な点をぶつぶつと書くことにする。一言で言えば、作品作りにおいて保守化したと思う--失敗は許されないというプレッシャーは相当なものだっただろうと察しもするのだが。

保守化ポイントは3つ・・・

まあ、良かったんですけれどね。あえて、ぶつくさ言いたくもなったので、そっちを中心に書きました。よろしければこちらをお読みください。

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マリファントの振付(ギエム、コンテンポラリーを踊る)

12月2日、五反田ゆうぽうとで『シルヴィ・ギエム、コンテンポラリーを踊る』を見る。チケット入手のアクションがちょっと遅れたがために二階の後ろの方の席しか取れなかった。ジョージ・パイパー・ダンセズギエムによるラッセル・マリファント作品集(デュオ『Torsion』、ソロ『Two』、トリオ『Broken Fall』)。マリファントが組んでいる照明デザイナーのマイケル・ハルズは非常に暗い照明を好むようで、それがゆうぽうとの二階の後ろの方からでは、本当に見辛い。ダンサーが終始2m四方にとどまっているという(もっと狭いように見えた)ギエムのソロ『TWO』など、オペラグラスで見なくては話にならない作品なのだが、オペラグラスは光量が落ちるから、とてももどかしいことになる。これで1万円か!ギエムというスーパースター鑑賞料だからこんな額になるのだ。スターを見せることに力点をおくなら、多少演出を妥協してでももっと照明を明るくするのが筋だろう。

たぶんマリファント作品が今回の上演のあり方にミスマッチなのだ。彼の作品がその良さを最大限に発揮する上演の仕方は、ゆうぽうとのような大きなホールで、ファン目当ての上気した観客たちを前にやるのとは方向性が違うのではないか。スターを使わずに、シアタートラムくらいの小屋で、落ち着いた雰囲気でやるのがいい。値段も半額にする(1万円なんてバカげている)。シアタートラムでそれなりに力量のあるスターでないダンサーがやっていたら、凄くクールでカッコイイ一夜になったはずだ、マジで。・・・作品を中心に考えるとそうなると思うのだが、ギエムありきという公演なのだから、そんなことを言う方がヘン、と思われてしまうかもね。

ギエムに罪はないが、それでも非常に残念に思えてしまうのは、マリファントの振付は、ダンサーの身体が細部までクリアに見えてこそ、その素晴らしさが十分に味わえるのではないか、と思えてならないからだ。彼の振付を見ていると、スピード感がじわじわと伝わってくる。ユニークなのは、そのスピード感が物理的速度によって生まれているのではないということ。それは運動の継続性によって与えられるのだ。運動を司っているダンサー自身よりも、身体の部分に生じさせた運動の方が主役になっているように見えた。運動の継続の滑らかさの影で、ダンサーの身体は運動のメディアとして隠れて存在している。運動は時には切断されるのだが、それはダンサーが主体性を発揮する瞬間というよりも、運動の消滅として体験された。また、一つのメディア(あるダンサーの身体)から別のメディア(もう一人のダンサーの身体)への運動の伝搬と、それによる運動の変質という現象の面白さ。運動の編集センスがいい、と思った。

ダンサーのムーブメント自体は、特に目新しさもなく地味なものが多い(小さい小屋でやれば、その地味さがまたクールに感じられたことだろう)のだが、それらを遂行していくときの振付家の関心の持ち方には独自のものがあるしセンスもいい、そして関心事に集中して派手な動きや演出手法などには手を出さない潔さがある(だからクール)--かなり想像で補っての判断だけれど--ということを、推察でなく、はっきりと体験したかったものだ。次はギエム抜き出やってくれ。

前日に1階席で見ていたという手塚さんのブログにTBしておこう。

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「dance today 11 ダンスをめぐる風景展」(USUSU/勅使川原三郎)

遅ればせながら、稲倉HPの方に先月横浜で開催された「dance today 11 ダンスをめぐる風景展」の感想を書いた。久々の稲倉HPの更新。ブログを始めた時に、もしかしたら、ブログばかり更新してHPの方が放置されてしまうのでは、と不安がよぎったのだが、その不安は的中しつつある。書いたものは全部ブログに載せればいいじゃないか、とも思うのだが、現在のところ、このブログは検索エンジンから完全に無視されている。一方、HPの方はgoogleなどからわりと尊重されている様子なので、どちらに掲載するかという選択は結構大きいのだ。自分のページのことも、自分のページだけで問題が完結していないのがWebというものだな、と感慨にふけったりもする。

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日常まったり機械(チェルフィッチュ)

8月23日、新宿パークタワーホールで「We Love Dance Festival 東西バトルAプロ」を見た。一番ウケたのは、まことクラヴ [ ニッポニアニッポン ] だったかもしれないが、初めて見たチェルフィッチュ [ クーラー ] が一番興味深かった。ばかばかしくて笑えて、それでいて自分の中に潜んでいる感覚にダイレクトに接続されるような怖さがある。

先週はたまたまアテネオリンピックと重なって、精密機械としての人間の凄さを見せつけられた日々だったのだけど、普通の人間の日常的な行動も、突き放した視線で改めて観察すれば、そこには人間の機械っぽさがそこら中に現れているのだろうな--[ クーラー ] で流れ続けるシーンに似つかわしくない大袈裟なクラシック音楽が、そうした視線の在り方を誘導する。機械的という意味は、学習したことを無自覚に反復しつつ活動しているということ。会話しながら人々が行う無意識的な動作をやたらオーバーにして、しかも特定のフレーズに特定の動作を固定的に対応させる。そして、一組の男女の登場人物が、互いに自分の話題(女性はオフィスのクーラーの設定温度、男性は日曜日朝のTVの討論番組)を間欠的に反復し続ける。

そんな光景を20分も見せられていると、「外界にいちいち反応したり、他者をおもんぱかって行動するよりも、自分が身につけてしまったことを反復している方が楽だし、おそらく迂回せずに快につながるよな」という、確かに自分の中にもある怖い感覚が浮上してくる。たぶんそれは人間が本来的に持っている危うい面であり、そういう面(セルフィッシュな感覚?)がじわじわと顕著になってきていることへの演劇的レスポンスではないか。バカバカしいだけで済ませられない公演だと思った。

途中、ポーズを取る女性だけにスポットライトが当たり、男性が影で腕の動きを反復するシーンがある。これが、当日チラシに書かれている「ほんの一瞬ではあるがはっきりとしたダンスでもある」という部分なのだろうか。ぼくはあのシーンは蛇足だったように思う。だいたい、あの公演をダンスとして評価することには、何か積極的意味があるとは思えなかった。やっている方も、別にダンスであることに拘るものではないだろう。たまたま、いまナンデモアリ状況が生まれているために、「We Love Dance Festival」の企画に混ざることになったパフォーマンスだと思う。

ダンスということでいえば、[ クーラー ] [ ニッポニアニッポン ] の間あたりに、なにか新しいダンス領域がありそうな気がした。[ ニッポニアニッポン ] は、日常的な行動がだんだんオーバーになっていき所謂「ダンス」になるという、コンテンポラリーではお馴染みのパターン。[ クーラー ] では、日常の無意識的な動作が強調されている点と、それがオーバーになった後で「ダンス」へ回収されてしまわない点がお馴染みのパターンから外れている。そこで、[ クーラー ] 的な「日常まったり機械」的状態から始まって、[ ニッポニアニッポン ] のように「ダンス」へ回収はされることなく、しかしどうみても踊っているのではないか?と思える状態--機械的反復ではなく外界へ開かれた回路をもちつつ、主体と非主体の狭間にいるような状態?へとシフトできたら、それは凄く微妙で面白いものになりえるかもしれない。と言うのは、踊っている人には必ず機械的側面がつきまとい、それが日常以上に強調される状態でもあると思うが、同時にそういう状態を越えなければ踊りとして駄目なんじゃないか、と思っているので、そういう意味で、[ クーラー ] [ ニッポニアニッポン ] の間は「凄く微妙で面白い」と思うのだ。ただし、それはおそらくチェルフィッチュのやりたいこととは相反してしまうのだろうけれど。

蛇足。Aプロはこのほか、岡山のズンチャチャと大阪の北村成美の公演があった。ズンチャチャは技術不要論という点で面白くなりうると思うのだけど、テーマが「夏休みへのノスタルジー」というのはあまりに情けない。北村成美は、ツボにハマル人はハマルみたいだけど、ぼくは全然ダメ。Bプロは所用で見られず。

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動作・ジェスチャー・ダンス(石井満隆)

7月29日、前から一度見てみたいと思っていた石井満隆麻布die pratzeでソロをやるというので見に行った。フリージャズらしきアルト・サックスとトランペットを吹くバッキーとダルブッカ(ダラブカ、中近東の陶器の太鼓)を演奏する有田帆太の生演奏が付く、 [ Hic et nunk ~今ここで、この場で~ ] という公演。石井は土方巽直系の舞踏家の一人で1939年生まれ。

公演は、無音状態で、薄暗い舞台に客席がふらりと石井が現れて始まり、途中で掃けて演奏だけになる部分を挟んで、45~50分くらい。興味が持続したのは最初の15分くらいだった。顔と胴に白っぽい泥を塗って、赤いふんどしを締めて、腰回りに浴衣や布をスカート状に巻き付けている。目をしっかりと見開いて空を睨みながら踊る(前半はずっとこうだった)舞踏家というは、私は初めて見た。この特徴は後で書くことと深く関係していると思う。公演の後、宮下省死の司会でトークがあった。このトークは驚いたことに公演よりも長かった。もともと、公演・トークの2部構成なのか?

全体を通して面白かったのは、石井の舞踏を見て印象に残った動きが、しゃべりながらする彼の身振りに現れていたことだ。自作の中に現れてくる特徴的な動きが、そのダンサーの日常的な身振りの中にも見られると言うことは良くあることだ。それはその身体の癖のようなものと思われることが多いのだが--それはそれで別の意味で興味深いが--、石井の場合、面白いと思ったのは、その身振りの持つ意味がダンスにおいても維持されているように見えたことだ。

土方巽との稽古について語りながら、「誰かが何かを発見する」と言って、腕を前に突きだして、宙にある見えない対象を下から掴んで手に取る身振りをする。あるいは、稽古の方針について語りながら、「技術ではなく、いろいろなやり方で試してみる」と言って、目の前の空間に対して構えを変えて見せるように、両肩のバランスと上半身の向きをカクカクっと瞬時に変えてみせる。

最初の身振りはわりと一般的だが、彼のその動きは決して一般的ではない。日常的なジェスチャーにしては身体の使い方が過剰なのだ。ジェスチャーであるなら物を掴む腕の動きさえ聞き手に判らせればいいのだが、彼の場合、腕を動かすのに必要となる以上の動きが全身に現れる。2つの目の身振りは、これは身振りそのものがかなり独特で、普通の人はあんな風な肩の動かし方はできない。

(1)高い位置にある何かを掴むという実際の動作には、そのために必要な合理的な身体の動きが現れる。(2)そこからジェスチャーになる過程で、腕の動き、そして顔を掴む物の方に向けるなどの、動作の外見的な特徴と主体の志向性を示す部分だけが残ってあとは省略され、残った動作も記号として成立するギリギリまで簡略化される。この動作には、手にした物から伝わってくるであろう重さに予め備えるといった全身的な動きはもはや失われている。(3)次に、この一度やせ細った動作に、物を掴むという本来の合理的な動作とは違う協働的な働きが加わっていき、動作の全体に日常を逸脱した過剰さが備わっていく。それがダンスの中の動きとして相応しいものになる。このとき、動作の記号性は弱められる。より曖昧で、象徴的な意味へと後退する。ダンスの中で相応しい文脈が与えられなければ、元来の意味とはまったく切れてしまい、動きだけが残ることもあるだろう。

石井がジェスチャーとして(3)的な動きをしたということは、彼の中では、(3)的な動きはジェスチャーレベルの意味性としっかり結びついているということの現れではないかと私は思った。だとすれば、舞踏の中で彼が上述の動きをするとき、彼はトークにおいてと同じように「宙に何かを発見してそれを掴む」「空間に対する構えを変える」といった意味を(半ば無意識的にではあれ)提示しようとしているのではないか。

照明が非常に空間構成的に設計されていたことも、この推理の傍証となるように思われる。「今ここで、この場で」 --わざわざ「この場で」と言い添えているわけだが、石井のいう「ここ」とは、照明が構成する舞台空間のことであり、外部より与えられたものとしてある空間のことなのではないかと思えるのだ。所与の空間に彼は立ち、バッキーが作る「いま」の中で、何かを発見してそれに関わったり、自らの構えを変えて関わり方を変えたりしながら、自分の生きていることを確かめていく--というのが彼の舞踏なのではないか。で、そういう主客二元論的発想で舞踏を作ってしまっているところが、彼の身体の独特さにもかかわらず、舞台そのものはあまり面白く感じられない理由ではないかと思ったりした。舞踏よりトークをしているときの彼の方がずっと面白い。思考がポンポン跳んで、話題が拡散していき、その中にユーモアに満ちたメリハリを利かせるのだ。聴いていて思わず笑みがこぼれてしまう。トークこそ彼のダンスだよ。

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