小指値『Mrs Mr Japanese』

もう一月ほど前のことになってしまったが、小指値という劇団の公演を初めて観た。王子小劇場での『Mrs Mr Japanese』だ。自分にとって、いい意味で気になる劇団となった。

印象を一言で言うと、別に全てのシーンで笑わせようとしているわけではないんだが、なんかコントのオムニバスを観ているような舞台だった。会話や独白で進行するシーンでも身体がドラマからかなり距離を取っていているところや、シーンのつなぎが唐突なところなどがコントっぽさを醸す要因だろう。台詞と身体の関係については、チェルフィッチュに似てなくもないが、チェルフィッチュの「管理されただらしなさ」とは違って、本当にだら~んと弛緩しているところが、小指値の特徴とも言えそうだ。ダンスシーンもあったりして、実にゆるゆるな感じで身体を動かす。そんな空気の中で、こーじ(山崎皓司)が舌でタバコの火を消すなどの電撃ネットワーク的な小技を見せたり、小柄なきぬちゃん(野上絹代)とかがポワントでなんとか相手を見下ろそうとしたりして、ますます観客をコントの持つ刹那を楽しむ感覚へと誘う。シーンの再現にも様式化にも興味がない。別に芝居じゃなくてもいいんだけれど、身体から滲み出る虚無感のようなものを表現したいんだ、とでもいう感じ。今後、こういうスタンスがどう強度を獲得していくのかが、楽しみだ。

ただし、ドラマ的要素がステレオタイプな点は課題だろう。高校を卒業してみたものの鬱屈した日々しか待っていなかった同級生たち・・・派遣の悲哀や主婦になって家に籠もる女性の孤独とか、そういう話の描き方が表面的で学芸会の台本みたいになっている。リアリズムはいらないけれど、観察力が欲しい。あと、最後に「未来から来たS」(篠田千明)がきぬちゃんのメンタリティを罵倒しまくって終わるというのも、面白くない。きぬちゃんを批判する必要もないし、怒りを爆発させるなら、その役目に外部的なポジションに立つ「未来から来たS」は相応しくない。自らが「これが今の若いJapaneseだぞ!」と力む主体となってしまうと、表象しようとしているその実態と矛盾してしまうのだ。

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チェルフィッチュ《エンジョイ》--予防回収的態度のこと

新国立劇場小劇場で公演中のチェルフィッチュ《エンジョイ》を見た。とても面白かったので久々にメモする。(メモだから、以下、まだ見ていない人への配慮はしないのでご承知おきのほどを。)

チェルフィッチュの舞台で以前から気になっていたことだが、「だったら、○○○しろよってことかと思うんですけれど・・・」「いや、○○○ってことは全然オッケーなんですけれど・・・」といった、相手のツッコミを先回りして回収するような言葉が異常なほどに多い(仮にこれを予防回収的態度と呼ぼう)。

何故なのだろうか? 自分はこんな喋り方をしないし、自分の周りにもこれほど過剰に回収しようとする人は見あたらない。よく知らないが、若者たち(20代)の間の会話はわりとこういう感じなんだろうか? 

ここで、チェルフィッチュの舞台--というより『エンジョイ』に限定していうべきだろうが--に登場するのは普通の会話ではない、ということは注意しておかなければならない。大まかに分けて、(a)観客に向かって登場人物の心境を説明する台詞と、(b)登場人物間の会話の台詞がある。量的には(a)が多いように思う。(b)かなと思って聞いていると、実は(a)だったと台詞の最後の方になってわかることもある。そして、予防回収的態度が多発するのは(a)全般、および(b)では緊迫した議論になるときだ。『ポスト*労苦の終わり』ではすれちがう夫婦間の会話がそうだった。

『ポスト*労苦の終わり』を見たとき、こんな会話になってしまうのは、「夫婦とはかくあるもの」とか「家族とはこういうもの」といった価値観の共通基盤が失われているからだと思った。だから、自分の言い分を相手に説明しようとすると、原理的なことから説いて行かざるを得ず、かといって、原理的なことまで突きつめて考えたことがないから、理路整然と説明などできない。仕方なく、相手の言葉に依存して、つっこみに反論する形で議論を形成しようする。

そういう状況では自分自身に正当性の基盤がないから、よるべなくなってしまうので、不必要な身振りがやたらに多くなる。チェルフィッチュ流のだらだらした役者の身体に、私はむしろ身の置き所のなさのようなものを見る。

予防回収的態度の暴走版は、『目的地』に登場した、想像上の人物--子供を作ることを批判する攻撃的な男--の出現だろう。あれは、特定の誰かのツッコミではなく、『エンジョイ』のミズノ君が感じてしまっているような世の中の声である。予防回収的態度の暴走は自己を身動きできなくさせてしまう。チェルフィッチュの舞台は予防回収的態度の蔓延により閉塞感が強かった。

しかし、今回、そんな予防回収的態度に対して、「本当にそんなこと言われたの? そういう風に勝手に思いこんでいるだけなんじゃないの?」と反論するマエノさんが登場した。これは結構な進展だ。今回の作品が明るい印象で負われるのも、マエノさんのこの発言に集約されるような突破口があったからだ。

それは良いことだ。フリーターに対して卑屈になるな、楽しめというメッセージも良い。でも、シミズ君たちがカップルでいることの幸せに浸っていればいいかというとそうでもない。このままずっとマンガ喫茶やカラオケボックスでバイトしていたら、親から独立して子育てをしたり、病気や怪我といった危機を乗り越えていくのは難しい。そんなことは誰でもわかっていることで、だからこの芝居の妙に明るい終わり方は、観客に割り切れないものを残すのだ。

シミズ君が何歳かははっきりしないが、彼が「ミカカ」と呼んで馬鹿にしている30歳トリオとほんの数歳しか違わない。彼が30歳トリオを年齢を理由に馬鹿にする考え方を持っている以上、彼が30歳になったときに、カワカミ君みたいにひとりビデオカメラに向かって遺書めいたモノローグをしてしまう危険性はある。結局、シミズ君だって、”世の中の声”を聞いてしまっていることに関してはミズノ君とたいして変わらない。

シミズ君は新入りのバイトが同世代だと思ったから、仲良くなろうと声を掛けたりしたが、たまたま履歴書を目にして、新入りが32歳とわかり、とたんに仲良くなりたいという意志が失せたというエピソードが紹介される。

なぜ、同じ年齢同士でつるむことしかできないのか。きっと、バックグラウンドが極めて近くないと、コミュニケーションするのが面倒くさいのだろう。相手が読めないと、予防回収的態度を取ることすらできないから、ダルいのだ。そして、ミズノ君やカワカミ君がこれまで自分を客観視しないでいられたのも、似たような境遇の仲間と連んでばかりいるからだ。境遇の異なる他者への回路を遮断しているからこそ、予防回収的態度を発達させることでそれを補おうとしているのかもしれない。

第2幕でだったか、映像でフランスの初回雇用契約(CPE)に対する若者たちのデモが紹介された。CPEが強い抗議行動に発展した背景には、それ以前から失業した移民系若者の怒りがくすぶっていたことがあると言われている。雇用調整する権力が自分たちにまで及んできたから、非移民系若者も移民系若者の抗議行動に合流したということだろう。フランスには差別と連帯とがある。日本のフリーター間の分断は、もっと隠微で深刻な状況と受け止めるべきだろう。

分断は、なぜチェルフィッチュの舞台では役者が時にマイクを手に語るのか、という問題にも関連してきそうだ。(a)の台詞の中でも、彼らがマイクを手に聴衆に語る時、あんなによるべない身体の持ち主である彼らの口調は、なぜか実に自信に満ちたものになる。例えば「ミズノ君問題評論家」とか、そんな肩書きでももった人がパブリックな場で聴衆に向かって解説しているかのような態度だ。実際、彼らは彼らの語る出来事に関してありえないほどに詳しいわけだが、彼らの語っていることは全くパブリックな関心事ではない。そのギャップが観客の笑いを誘う。と同時に、ここでは公/私の区別がなんか奇妙なねじれの中で曖昧になっていると感じる。

「これから○○○っていう話をやります」という冒頭の台詞に象徴されるように、チェルフィッチュの舞台では第4の壁が取り払われていると言われているが、厳密にはそうではない。観客ははっきりと役者にも届くような声で笑ったりするのだが、役者はそうした反応には気づいていないかのように振る舞う。役者は物語の外に立ち、観客に向かって語るが、観客の存在を無視している。あるいは応答しない。このねじれた関係によって、私たち観客は無言の聴衆の役割を担わされている。そのため、時に自分たちが、ミズノ君が聞いてしまう”世の中の声”を語る主体であるかのような気分にさせられてしまうのだ。

この居心地の悪さ、そして、先に述べた最後に残る割り切れなさの感覚・・・『エンジョイ』は実に意地の悪い仕掛けを隠し持つ演劇なのだ。

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「虚の第一世代」の2つの目線(川村毅《クリオネ》)

軽い芝居、しょぼい芝居
ルー大柴が手塚とおるに言う。

どっか軽いんだよ、あんた。
2月にザ・スズナリで上演されたT factory《クリオネ》(*)の第二幕中盤で、のらりくらりとした態度を取り続ける首塔聖人(手塚)に映画監督・国仲誠一郎(ルー)が言うセリフだ。このセリフは、《トーキョー/不在/ハムレット》の冒頭で(そして終わりの方で)島村幸森がローソン前で贄田に言うセリフ、
しょぼいっすね。
を思い起こさせる。この二つが同じことを意味しているわけではないが、どちらも現在の日本社会に対する否定的なコメント(「軽い」は必ずしも否定的な形容詞ではないが、国仲は明らかに否定的な意味を込めて使っている)であると言ってよいと思う。ただ、川村毅宮沢章夫では目線が違う。

そしてこれらのコメントは、それぞれの芝居自体にも当てはまっている。《クリオネ》は「どっか軽」く、《トーキョー・・・》は「しょぼい」。結果としてそうなってしまったというより、必然的にそうなっているのだ。つまり《クリオネ》は「どっか軽」さを、《トーキョー・・・》は「しょぼ」さをそれ自体で観客に提出するべく作られているのだ。

2つの芝居の背後に、川村と宮沢の問題意識の重なり合うところがあるのは確かだ。《クリオネ》は「神なき国の夜」と題した連作の第一作として位置付けられているが、「神なき国」とは、《トーキョー・・・》でいうところの「秋人の不在」である。天皇制が不在化しつつも温存されている状況。これが、現在の日本社会へのコメントとなりうるような舞台を作る上での前提として共有されているように思う。そして、どちらの芝居でも、登場人物たちは物語を求めている。

また、郊外への関心という点でも重なるところがある。《トーキョー・・・》では北川辺町という郊外を舞台にし、そこと東京が見かけ上2つの極になっている。それに対して《クリオネ》では、白根町団地(*2)という高度成長期に開発された郊外の団地が主要な人物の原風景として登場し、国仲や真城、安西らが普段生活している場所--はっきりと名指されることはないが東京だ。安西は「都内」では凧を揚げる広い場所がないと言っている--が場所的な2つの極になっている。

さらに言えば、この2つの舞台は、本公演に至る過程にも類似点がある。どちらもワークインプログレスの形を採り、04年5月に実験的な公演からプロジェクトを始めている。《クリオネ》に関しては、第一幕第一稿をサイスタジオコモネBで、リーディング公演の後、約1カ月間に渡って毎週末、第三エロチカ、文学座、日大芸術学部演劇学科生の3チームが日替わりで繰り返し上演した。さらに同年12月に三軒茶屋シアタートラムで、第一幕(第三稿)のリーディング公演が本公演とほぼ同じ役者により行われている。また、《トーキョー・・・》同様に原作の書き下ろし小説が発表されている(「すばる」04年5月号掲載「夜」)。

宮沢章夫は1956年生まれで、川村毅は1959年生まれ。二人はともに50年代後半生まれで、高度経済成長期の最初に生まれた世代である。首塔聖人の言い方では、「虚の第一世代」ということになる。だから、問題意識が重なり合うことに不思議はない。


同世代を見る川村、子どもの世代をみる宮沢

しかし、二人の目線は違う。宮沢がごく若い役者たちを「こきつかって」(前々回のエントリー参照)自分の子どもの世代である20代の生態(とりわけ贄田、小西といったニートたち)を中心に据えたのに対して、川村はキャリアを積んできた役者を使って同世代を描いた(チラシには「東京に生きる40代の人々の痛みを描く」とある)。

共通点があるだけに、この違いが凄く面白い。私は宮沢の舞台を見るのは初めてだし、川村作品もそれほど見ていない。だから作者の比較は誰かほかの人にお願いしたいところだが、おそらく川村は作家的志向性が強く、宮沢はそうではないということからこの違いが生じているのだろう。

同時並行で進められたワークインプログレスの内容も、プロセスの本公演への寄与という点から見ると、川村の方は彼が戯曲を練り上げるために役立てられた面が大きいが、宮沢の方は戯曲は早々と出来上がっていて、それを素材として、役者たちを使っていろいろ実験してみて、パフォーマンスのアイデアを用意していったという風に見える。つまり、「子どもの世代/同世代」という目線の先の違いが、二人の戯曲に対する距離感の違いに重なっているのだ。

おそらく、《トーキョー・・・》の舞台が「しょぼい」のは宮沢が子どもの世代をしょぼい存在として捉えているからであり、《クリオネ》が「どっか軽い」のは川村が同世代の抱える問題をそのように捉えているからだなのだ。

《トーキョー・・・》の「しょぼ」さは、作品に持ち込まれた現実(北川辺などの風景映像、あるいは世田谷、歌舞伎町、上野、伊勢丹、ローソン、ココスなどの具体的な地名や店名)や、設定の一部を借りている「ハムレット」という物語の大きさに対して、舞台や役者たちの立ち上げようとしているイリュージョンの貧相さに由来している。そこにはズタズタになった物語の断片と、その断片と戯れるパフォーマンスしかない。こうしたものは、「しょぼ」くあるために召喚されたという見方も可能だろう。

一方、《クリオネ》は、一応は物語が成立しているかのようなイリュージョンを観客に与えてくれる。劇場に入ると、クリオネを暗示するとも思える星形模様の色褪せた壁紙が三方を囲んでいるだけのがらんと舞台。そして、メリーゴーランドを連想させるようなひなびた音楽。開演前から、ここでレトロなファンタジーを垣間見るのだと予感させるではないか。

そこへ、大きな体を縮こまらせるように振る舞う外村史郎(*3)が登場する。パニック障害でアトピーのシナリオライター・真城涼だ。昼ドラや火曜サスペンス劇場の脚本を書き、国仲と組んで人がどんどん死ぬVシネマの脚本を書いてきた。映画プロデューサーの安西栄一(笠木誠)はサングラスを掛け、誰にでも馴れ馴れしくていい加減な、いかにも業界人然とした男だ。「生ビールよりポッピー、煙草でなくシガリロ、銀座のクラブより中野のキャバクラを好む」ちょっとした無頼派気取り。田中角栄を尊敬し、半分人生を降りちゃったような男だ。笠木のうさんくさい演技がいい。国仲を演じるルー大柴に関しては説明不要だろう。やたら威勢はいいが、まさに「虚の第一世代」という言葉がぴったりきそうな男だ(ルー大柴は1954年生まれ)。

そして、彼らが組んで作った映画のモデルである、やはり同世代という設定の殺人犯(名前は与えられていない)。伊澤勉は、いつもどこを見ているのか判らないような捕らえどころのない、それだけに周囲を不安にさせる奇妙な男としてこれを演じる。国仲の恋人・白崎理香を演じる紅一点の宮本裕子の役は、ローマ帰りの外交官の娘。自尊心と独立心が程々に高く自分の弱さを認めることが出来ない。そして強烈な個性を放つ国仲の小学校時代の同級生・首塔聖人を演じる手塚とおる(但し、私は彼のエキセントリックな演技はあまり評価しない)。役者がしっかりと登場人物に存在感を与えている。そして登場人物のキャラが立っている。だから、彼らを見ているだけで十分に面白い。


「虚の第一世代」のテーマと彼らが共有するもの
ところが、そんな彼らが拠り所としているそれぞれの物語が空虚なものであることが次第に明らかになる。《トーキョー・・・》が物語の不可能性を前提条件とするところから始めたのに対して、《クリオネ》では、同じ問題が内在化され、その発見プロセスに焦点が置かれる。

トラウマを繰り返し語るうちに粉飾が進み、どこまでが真実か自分でも判らなくなってしまった真城は白崎に言う。

真実なんてどこにもない。なんだか今初めて気がついた。なぜあなたとぼくが国仲を必要としているのか。彼のどこを探しても真実がないからです。
これが彼らの追求すべきテーマであり、おそらく、彼らの世代固有のテーマでもある。子どもの世代の贄田たちはこんなことは気にしない。真実かどうかなんてどうでもいい。根拠なく「全部、秋人の仕業だ」と言い張ることで刹那的に物語が立ち上がりさえすればそれでいいのだ。まあ、「電車男」人気みたいなものかもしれない。

彼らは真実に依拠できないことに苛立っている。真城は言う。

おれは思った。すべてが宙ぶらりんだ。飲んでいる酒は苦くもなければ甘くもない。(中略)おれのなかのすべてが、死んでいるわけでも生きているわけでもないオヤジのように・・・
そうなってしまったのは、上の世代(全共闘世代)のように歴史に関われなかったからだと考えているからだろう。内ゲバで人を殺した「男」は言う。
服役中に感じていたのは塀の外で歴史が動いているということです。今でもその感覚が続いている。(中略)歴史は自分の外側でしか動いていない。

このような時代を掴むキャッチフレーズあるいはアフォリズムのようなセリフが川村の芝居にはよく飛び交う。これがまた彼の芝居の「なんか軽い」ところだ。しかし、《クリオネ》のような芝居を書いたのだから、彼はそれも承知の上でやっているのだと思う。この作品は彼の自己批判のようにも思える。

ところで、彼らが贄田たちと同様に「物語の不可能性」を生きているのだとしても、子どもの世代とは違って、彼らはまだ「大きな物語」の残響の中には居るのだと思う。これを2つの芝居の独白の構造の違いにみてみよう。

《クリオネ》においては、しばしば登場人物が独白によって、TVのドキュメント番組のナビゲーター(*4)のような役割をこなす。芝居の冒頭で独白する真城は、これから紹介するルポ映像の解説者のようにシーンの状況を語る。そして、映像がインサートされる代わりに白崎が舞台に登場して、二人は会話する。真城は会話の途中でも、自分の主観的な感想や解説を挟んだりする。同じような形式で真城は国仲との会話のシーンも紹介するが、その中ではさらに国仲がナビゲーターとなって首塔との出会いをインサートするという入れ子構造になっている。こうした構造は、彼らがかりそめであっても出来事にフレームを与えられる存在であることを前提にしている。

第二幕になると過去に登場したシーンがナビゲーター役を変えてもう一度語られる。例えば、真城の立場から語られた真城と国仲のバーでの会話が、今度は国仲によって語られる。いわゆる「藪の中」的アイデアなのだが、ここで興味深いのは、ナビゲーター役が変わってもシーンの印象はそれほど変わらないということだ。つまり、真城も国仲も白崎も個人的感慨のレベルではそれぞれに違うが、物事の認識の仕方、考え方はそう大して違わない。それは彼らが価値観のレベルで共有し合うものがあるからだと思う。これが《トーキョー・・・》の若者たちだったらこうはいかないだろう。ローソン前に残された贄田と小西と幸森が同じ場面をナビゲートしたら互いに全く違った印象のものになるのではないか。

さて、《トーキョー・・・》では、各シーンのなどに、さまざまな登場人物によって長い独白が行われる。それは、フォークナーっぽい意識の流れ的文体で書かれた原作「秋人の不在」の地の文をそのまま引用したようなセリフで、一人ひとりが外界と断絶したような意識を抱えて生きていることを感じさせる。

さらに言えば、その独白の文体は、誰の独白であっても、年齢や性別などの属性を無視して、同一性を感じさせるように書かれている。独白の語り手は、役を突き抜けて、この舞台全体を司っている神=作者ではないかと感じられる。無論、書き分けることくらいできたはずだが、宮沢はあえてそうしなかった。それは、彼がこれを若者たちを「こき使って」作ったことに対する矜持のようなものだと思う。あくまでも「これは、自分=宮沢から見た世界である」という刻印だ。贄田たちが自分たちの世代の問題を内在的に語る芝居は、宮沢の仕事ではなく、贄田たちと同世代の劇作家によって書かれる必要がある。


白根町団地へ向かった彼らはどう生きるのか

最後に、2つの芝居におけるトポスの役割を比較して、この小論を締めくくる。首塔の名付けるところの「虚の第一世代」の内面には、親の世代と自分の生まれ育った社会に対するアンビバレントな感情が渦巻いている。首塔は国仲に言う。

あなたには市民社会への憎悪がある。まさしく父親たちが築き上げたものですね。
国仲は言う。
適度に安定した生活を送ってると新興住宅地の光景が甦ってくるんだ。
それゆえ《クリオネ》では郊外が、郊外出身の中年によって、東京から振り返られる場所として位置付けられる。一度は捨ててきた場所ではあるが、自分たちの原点として再発見されるのだ。

これに対して、《トーキョー・・・》でのベクトルは、郊外から東京を志向しつつも、東京にはたどり着かず、トポスを失ったどこでもない場所へと拡散してしまうのだ。宮沢のWeb日記「富士日記」(2004年2月21日~29日分)を読めば明らかなように、彼は北川辺町にはなんの思い入れもない。戯曲が彼の舞台にとって材料でしかないように、北川辺町という場所も単なる材料でしかない。だから、トポスを喪失した場所として突き放して提示することができる。《トーキョー・・・》のラストで、音声とスクリーンの文字となって提示される贄田の独白は、故郷への憎悪を語っているが、およそ唐突で空虚に感じられるのはそのためだ(だいたい、フォークナーの小説『アブサロム、アブサロム!』のパロディだし)。

郊外に向ける川村の目線は宮沢のそれとは違う。トポスを喪失した場所であっても、そこで生まれ育った中年にとっては、自分のアイデンティティと切り離すことのできない特別な場所なのだ。たとえそこに真実がなくても、我々の世代はそれを我が物語としなければならない--これは、死体が埋まっていないと判っていても、穴を掘り続けるラストシーンが主張しているメッセージでもある。

青空に凧の揚がる幕切れは明るいが、空虚な明るさだ。それは、川村が、彼らは春になれば消えてしまうクリオネのように儚い存在だと捉えてしまったからだ。クリオネという現状認識はいい。では、彼らが本当に明るく生きるための可能性はどこにあるのか。そして、真城の指摘する「見えない戦争」に対して、彼ら--いや、私たち全員はどう対処していったらいいのか。連作二作目以降では、その辺までつっこんで欲しい。


(*)2005年2月3日~13日上演
作・演出:川村毅
出演:手塚とおる、宮本裕子、外村史郎(文学座)、伊澤勉、笠木誠、ルー大柴
美術:島次郎、照明:大野道乃、音響:原島正治、衣装:伊藤かよみ
製作:平井佳子、株式会社ティーファクトリー

(*2)「白根町団地」は「都内の会社に通う会社員たちのためのベッドタウン」として設定されている。「白根町団地」をgoogleやYahoo!、gooなどで検索してみてもなにも検索にひっかかってこない。「白根団地」で調べると、山梨県南アルプス市に1965年に作られた平屋の団地、横浜市旭区白根に1964年から分譲の始まった団地(これはかなり大きいらしい)、それに直接的なデータはないが茨城県取手市にあるらしいものの3箇所である。作品の終盤で国仲らは東海道線のグリーン車で行くとあるから、検索結果でこの交通手段と唯一矛盾しないのは横浜の白根団地ということになる。横浜駅まで東海道線に乗って、それから相鉄線に乗り換えて、鶴ヶ峰駅下車だ。川村毅が横浜育ちであることを考えると、ここがモデルになっている可能性はありそうだ。

(*3)私の見た初日(2月3日)、外村はセリフを噛みまくっていた。未確認だが、何かアクシデントがあったようだ。

(*4)例えば、NHK特集でのスタジオで語るアナウンサー、あるいはテレビ東京「ガイアの夜明け」での役所広司みたいな存在。あまりぴったりした例ではないけれど。

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村人のダンスと北川辺町民のダンス(松本修《城》)

松本版《城》の提出する構図
《トーキョー/不在/ハムレット》と同じ頃、新国立劇場小劇場で上演された《城》(原作:カフカ、構成・演出:松本修)(*)は、途中20分の休憩を挟んで3時間45分という長丁場の芝居だった。

主人公である測量技士Kは、陽気で図々しい男である。次々と不可解な状況に巻き込まれ、事態は悪くなる一方のように思われるにも関わらず、彼の声を聞いていると、それほど滅入っているようには感じられない。そもそも、彼が本当のところ何を望んでいるのか良くわからないつかみ所のなさがある--このようなKのイメージは、Kを演じた田中哲司の功績だと思う。しかし、それは演出から判断されるこの上演の構図にはうまくフィットしていなかった。

この乖離は、制作プロセスに起因するものなのかもしれない。台本なしでカフカの小説を基に、演出家が役者たちとワークショップを行いながら、一緒に作り上げていったという。細かなところにはワークショップの場から生まれたアイデアがいろいろと生かされているのだろうが、そのような作り方をしながら、結果としてひとつのスタイルにまとまってしまうことに不満を覚える。なにか凄くもったいないことをしているような気がするのだ。まとまってしまう前のワークショップでの試演を見た方が、本公演より面白かったのではないか、と想像する。

それはともかく、田中のKを評価する理由。私は原作の小説を読んでいないのだが、Kは相当の食わせ物であることが舞台に取り上げられたエピソードからも判る。彼は城の伯爵から依頼されてきた測量技師だと名乗るが、道具はひとつも持参していない。故郷に妻子が居るから仕事を終えてさっさと帰りたいと言いながら、唐突にフリーダと結婚する。いった彼が村にやってきた真の目的は何なのか? 彼は不条理な状況に振り回される犠牲者などではない。むしろ、彼自身が不条理そのものであり、それはその場その場の欲望に従う人間を俯瞰した時に見られる不条理さに似ていると思った。

しかし、演出はKをそのようには仕立てていない。シーンの区切りごとに、舞台上部に設置されたスクリーンに、カフカのテキストから抽出された人生を諦観するようなアフォリズムが表示され、黒いコートに身を包み、片手に杖をもった男がスポットライトによって浮かびあがる。つまりこの男Kを、いわゆる「カフカ的不条理」を体験する者として見よ、と観客を誘っているようにしか思えない。

そして、村人たちがKに対置される。私は最後列から見ていたのでよくわからなかったのだが、「村人のほとんどは下まぶたに墨を入れ肌を褐色に塗ってKと相対する側の不気味な印象を作っ」(*2)ていたのだそうだ。そして、井手茂太の振付による村人たちのダンスが、村人たちを孤独なKをたぶらかす集合的な存在として印象づける(フリーダも所詮はその一人だ)。あたかも、彼らは皆、Kに不条理を味わわせるための、見えない権力によって用意されたひとつの装置であるかのように。

ここで舞台の構造にも触れておこう。舞台は3階建てになっていて、劇中、役者たちは階段で3つの階層を往き来する。その階層構造はある時は家の断面であり、またある時は起伏のある村の地形を表してもいるのだが、舞台が進行するに連れて、主舞台である1階=(作品世界における)「現実層」/2階以上=「現実層」を見下ろす超越的な層、という構図が出現する。深く被った帽子で目の辺りを隠し、黒いコートに身を包んだ男たちが2階3階に登場し、じっと1階を見下ろしている場面がそれだ。つまり城からの視線が表現されているのだ。

こうした「城」の解釈--受難者としてのK、集合的存在としての村人たち、超越的な権力とその視線--は、私にはたまらなく退屈だった。あまりの退屈さに、公演中、何度も居眠りをしてしまったほどだ。こうした読みが暗に示す城の権力は何によって保証されているのか。村人たちを一括りにする視線は、実際のところ、誰のものなのか。そうした問いを立ててみれば、このような世界観にリアリティのないことが理解されるだろう。


《トーキョー/不在/ハムレット》との比較
例えば、こう考えた方がまだ今日的であると思う--Kは、偽りの受注や結婚などによって契約を成立させることで、村というシステムに侵入し、組み込まれようとするとするウィルスである。ウィルスは必ずしも排除すべき存在ではない。システムを一時的に混乱させはするが、システム内に隠されていたものを明るみに出す触媒となる可能性をもっている(少なくとも、Kはそれまで隠れていた情報システムの不備の露呈させたのではないか。日本企業の慣習に対するホリエモンみたいなものか)。重要な点は、村というシステムがどうやって成立しているかで、それは村人たちが城という「大きな物語」を共有することによってである。ここで、「本当にそれは共有されているのか?」という疑問が生じる。実は、一人ひとりがそう思っているだけで城に実体はなく、各人の抱いている城幻想も同一ではない。

こんな読みを、カフカの小説《城》を読んでいない上、その一般的な解釈も知らない自分が書くのは勇み足かもしれないが、舞台に示されたエピソード群から、松本演出に逆らって諸要素を取り出せば、こうした解釈の舞台が作れると思った。そして、こうした別の角度からの読みを持ち出したのは、もうお気づきかと思うが、「秋人の不在」=「明仁の不在」という符丁を隠し持つ《トーキョー/不在/ハムレット》との類似性と差異を浮き上がらせたいからである。

これまで松本版《城》について見てきた点を、北川辺町の人々(無論、作品上の。実在のではない)について見てみよう。彼らを一括りにする視線は、《トーキョー・・・》には存在しない(強いて言えば、松田鶏介の会社の上司・加藤の野次馬の視線だろうか)。そもそも、北川辺町の人々を他の人々から際立たせるようなトポスなど成立しない、という認識の下にこの舞台は創られているのだ。余談になるが、そうした視線を欲している者たちなら存在する。町の権力者、牟礼夏郎治(クローディアスと相似形の人物)である。彼は、北川辺を「東洋のベニス」などと賛美するが、まあ、これは権力者のありきたりな手法だ。

北川辺町には、そこに住む人々を見下ろすような超越的権力の視線も存在しない。代わりに存在するのは相互監視の視線だ。夏郎治の指示で倉津と須田が贄田を監視し、贄田は小西を暴力的な管理下に置き、小西は島村巻子を監視する。こうした監視はひたすらそれぞれの欲望のために存在しているだけの極めて世俗的なものだ(*3)。

また、《トーキョー・・・》の舞台ではコンビニの監視カメラ映像が意味ありげに挿入されている。その映像はスクリーンセイバー(画面を水槽に見立てて、その中で泳ぐ金魚が増えていく)によって掻き消されていったのだった。すなわち、この監視システムが放置されていることを示す。何か支障が発生した時のみ、監視映像は事後的に見られるのだが、そうでない限りは不在と見なされる監視カメラ(今やあまりにも日常的に偏在し、私たちは意識もしなくなりつつあるが、しかし、それは本当のところ、善良な市民なら忘れていい存在というわけではあるまい)。監視社会と言われる私たちの住む社会の監視の特質は、《城》にみられるような統治者による超越的な監視ではなく、コンビニの監視カメラに象徴されるように、監視主体が民間に拡散していき、社会生活のさまざまな局面にネットワーク化されてきている点にあるのだ(*4)。

私はこのような松本版《城》と《トーキョー・・・》の差異が、それぞれに組み込まれたダンスの違いに色濃く反映されていると思う。《城》においては、リズムと動きのスタイルが踊る村人たちの間でしっかりと共有されている。そして、身体が動きに対してよく訓練されている(ダンサーとしてということではない)。身体が動きを覚えているから、その覚えている感覚に身を委ねている面がある(つまり、いわゆる”ダンス”になっている)。そして、ダンスの舞台上の役割は、同じ権力下にあって一括りにできる存在として村人たちを提出することだ。このダンスが退屈に思えたのは振付家のせいではなく(振り自体は退屈ではなかった)、そうしたダンスの使い方をした演出家の責任である。

一方、《トーキョー・・・》では、リズムはバラバラだし、スタイルがはっきりと共有されているわけでもない。しかも、前回のエントリーでも書いたが、身体が動きに逆らっている。大急ぎでこなさなければいけない行為がたくさんあって、それらを頭で指示しながら無理矢理身体を動かしているといった感じがする。・・・こう書いてみると、ますます今日、日常に溢れている身体を示唆するものとして感じられてきた。身体は調教されていないが、脳が調教されているということだろうか。

このニブロールの身体について、まだ十分に言い当てていないように感じるが、前回よりは少し近づいた気もする。それにしても、こうしてみると、演劇にダンスを取り入れた近年の事例の中では、《トーキョー・・・》におけるニブロールのコラボは出色のものではないだろうか(それほど多数の上演をフォローしていない私が言うのもはばかれるが)。


(*)2005年1月14日~30日上演
原作:フランツ・カフカ、池内紀訳「カフカ小説全集(3)」より 白水社刊
構成・演出:松本 修
美術:島 次郎 、照明:沢田祐二、音楽:斎藤ネコ、音響:市来邦比古
衣裳:太田雅公 、振付:井手茂太
文芸助手:宮坂野々 、演出助手:川畑秀樹、舞台監督:米倉幸雄
芸術監督:栗山民也 、主催:新国立劇場

(*2)中村隆一郎「私の演劇時評」より

(*3)この点に関連して、小説「秋人の不在」で気になるのは、語り手の視線だ。正体不明の語り手が登場人物をねっとりとした視線で描写する。この語り手は、物語を読者に伝えることにはあまり熱心ではなく、むしろ自分の欲望に忠実であるようだ。事件の把握という価値観からすれば重要と思われることは欠落させ、どうでもいいと思われるところを詳細に語ったりする。たとえば爆破されたスナック「銀世界」の現場に向かう杜季子を描写する以下の下り。

窓を閉めて自室に戻ってパジャマを脱ぐと、下着をつけていない上半身には形のいい乳房があらわれになり、その膨らみがふわっと揺れるのを手で押さえゆっくりとした動きでブラジャーをつけ背中に手を回してホックを留め、その上に白いTシャツを着たが、そしてジーンズに水色のサンダルを履いた姿で家を出たとき、自分でも意識していなかったのは、いつのまにか小走りになっていたことだ。(『文學界』8月号p.80下段-81上段)

語り手の視線の問題は、この小説への影響が語られる阿部和重の小説《シンセミア》とも共有する問題だと思う。それについては去年書いた

(*4)従って、新国立劇場の主催で、カフカがこのように解釈されて上演されることに、アイロニーが感じられる。ただ、それは偶然の産物だろう。主催サイドが影響を及ぼして、《未来世紀ブラジル》的な管理社会のビジョンになるようにしむけたとは考えにくい。その保守的な体質が自ずから、このような解釈の上演を呼び寄せたと見るべきだろう。そう思うと、これはやはり皮肉なことである。

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メディアミックス/若者/ニブロール(《トーキョー/不在/ハムレット》)

メディアミックス的興行
今年1月9~23日に三軒茶屋シアタートラムで上演された遊園地再生事業団《トーキョー/不在/ハムレット》は、前年の5月のリーディングに始まり、原作の小説発表(『文學界』8月号収録「秋人の不在」)、関連映像作品の公開(7月、《be found dead》)、準備公演(10月)、実験公演(9月)と上演や作品発表がワークインプログレス的に8カ月間も続くプロジェクトだ。オマケにWebでは宮沢章夫が「不在日記」と題して制作日誌的な記述をリアルタイム(たまに閲覧する程度だが、彼のWeb日記にタイムラグはそれほどない)で発表し続けて、作品の舞台となり重要な意味を持つ埼玉県北川辺町を初めて訪れた時の様子などが克明に綴られている。

このうち、私が事前に観た公演は準備公演(麻布die pratze,04年10月15日)だ。スクリーン以外に舞台装置は何もなく、時系列をシャッフルした断片的なシーンの連鎖で構成されていて、誰が誰なのか、結局どういう物語なのか、なんだかほとんど判らなかった。とはいえ、そんな理解を必要としない舞台なのだろうと感じた。

特徴的なのは、同一のシーンがパフォーマンスレベルでの変形・編集が施されて複数回演じられるのだ。例えば、逆廻し(台詞は文節単位で逆に言っていく)に演じてみたり、台詞だけを役者間で交換して、演技と台詞を乖離させてみたり、登場人物を一人ずつ削っていきながらシーンを繰り返したり、演技だけシーンとは関係のないコント的なシチュエーションを演じさせながら会話させてみたり・・・といった具合だ。

全体的な把握が出来ない中で、こうした試みばかりが目立つので、こうした試みを見せるためにやっている舞台という印象が強い。「準備公演だから」という割り切りで、アイデアだけいろいろポンポン出して、「これ面白いかも?」みたいなノリでやっているのだろうと思った。しかしその割には、逆廻しのシーンなんて、演技もビデオの巻き戻し再生みたいで、「よくここまで仕上げたなあ!」と役者たちの頑張りに感心させられた。そんなわけで、見ていてそれなり面白かったのだけれど、全体として宮沢章夫がなにを目指しているのかは判らず、だから、自分の頭で考える代わりに若い役者をこき使っていろいろ試して遊んでいる、という風にしか見えなかった(*)。

「ま、準備だからな。本公演は違うだろう。話が複雑そうだから事前に原作を読んでおこう」と思って、次に「秋人の不在」(単行本として出版される際に《不在》と改題された)を読んだ。お陰で、登場人物の関係がしっかり整理できたし、ハムレットの物語がどう変奏されているか、また、直接関係のない部分(島森家の人々など)がかなり含まれていることがよく判った。さらにWebの「不在日記」を読むと、小説の終盤(本公演の終盤でもある)に登場する、ライブラリーに車でやってくる四人組は、初めて北川辺町を訪れた宮沢たち自身の行動がそのまま引用されていることに気づく。DVDを買って《be found dead》を見たなら、さらに新たなことに気がついたのかも知れない。要するにこれは一種のメディアミックス商法だ。実際、本公演を見て、不安に駆られてロビーで販売しているDVDやら小説やら戯曲掲載誌やらを買い求めた人を知っている。

私はこの手法自体は否定しない。謎解きの消費は人々の流儀であり、彼らは自ら望んでそうするのだ。でも、このプロジェクトの場合、相当意地が悪いと思わざるを得ない。だって、本公演を見たら、そのスタンスは準備公演のそれと基本的には変わっておらず、宮沢が物語消費的な心理に対して「そんなもの無効だ!」という考えのもとにこのプロジェクトを創っていることが疑いようがなくなったからだ。

物語からパフォーマンスへ
物語の断片群を与え、一方で複数メディアでヒントを用意するという点で、プロジェクト自体が物語消費を誘うようにできているわけだが、作品の登場人物たちも物語にしがみつこうとしている人々である。もっとも意識的なのは贄田で、行方をくらました秋人を核に、町で起きている事件を彼の仕業だと主張することで物語を形成しようとしている。もっとも無意識的なのは杜李子で、隠れキリシタンの言葉をつぶやくことで、不安のあまり漂ってしまう自分の心にどうにか錨を降ろそうとする。牟礼の家系にこだわる夏郎治、小泉首相に手紙を書く中地らはその中間に位置する。

人は物語に縛られることで安定する。しかしそのためには物語が共同体に根を下ろし、その構成員によって共有されていることが大切である。しかし、今日の消費社会ではこういった明瞭な形で人を生涯にわたって縛る共同体が存在しない。そのため物語に対する飢餓感が生まれてくる--と指摘したのは大塚英志だったが、北川辺町の人々はまさにそういった心理状況にあるといっていいだろう。もちろん登場人物たちに限らず、私自身も含めて、大塚の指摘と無縁である人は少ないであろうから、私が言いたいのは、この舞台は、そうした状況に観客の注意がいくように仕組まれている、ということだ。

本公演では、舞台を前後に分断する垣根が導入され、垣根の向こう側はスリットから覗けるようになっている。上手側にはローソンを思わせるサインが掲げられている。シーン構成の手法は準備公演に近く、そこに垣根の向こうの演技を撮影してスクリーンに投影するという実験公演の手法を組み込み、さらに北川辺町の映像やニブロールの映像作家・高橋啓祐のアニメーションが盛り込まれている。これまで発表してきた要素の集大成になっているわけだ。おそらくプロジェクトをずっと追いかけてきた観客にはお祭り的な感慨を与える公演となったのであろう。

そうではない私にとって、本公演の観劇は、物語がボロボロに寸断され、その断片すらも無意味化されて、舞台を進行させる駆動力としてシーン単位でも使えなくなっていくありさまを目撃する体験であった。贄田、杜李子といった設定上の人格は途中から色褪せていき、代わりにそれらを演じている役者たちが前景化されていった。

とはいえ、素の役者たちがそこに現れるわけではなく、あくまでも、舞台上の役割(配役ではない)を担って行動する彼らである。彼らを律しているのは、シーンごとの暫定的なルールだ。大河内浩は、松田貞治と夏郎治の一人二役を演じているのだが、口を歪ませるかどうかだけで、この二役を区別するというコントみたいなことをやっている。二人の独立した人間をそれぞれに表現することなどここでは問題とされていないわけで、要は「このシーンでは口を歪ませてしゃべる/別のシーンではそうしない」というルールに従う大河内がいるだけだ。

前に紹介した準備公演でのパフォーマンスレベルでの変形・編集が本公演でも多数採用されており、こうした事態をより明確にする。一番過激なのは矢内原美邦の振付で、役者たちが彼女の振付を引き受ける時、もう変形・編集というレベルを超えて、彼らは配役とはまったく関係のない規制の下に行動している。

私はニブロールの公演が立ち上げようとしている世界に馴染みにくさを感じてきたが(よってそれほど観てもいないのだが)、今回のようなコンテキストが与えられると、少しだけ彼女のやっていることに面白さを感じられたような気がした。役者=パフォーマーたちの動きを見ていると、遂行している動きに対して身体が慣らされていないと感じる。彼らは自身の意志で動いているようで、身体はその動きを拒んでいる。動きを自分のものとしないままに強制されて動いている身体が見えてくる。それがチェルフィッチュの一見だらしない身体と裏表の関係にあるのではないか、という直感が働くのだが、まだよく判らない。

ナビゲーター岩崎正寛
そんな振付付きのシーンで、中地・加藤役の岩崎正寛が「俺にコンテンポラリーは無理だ」と叫ぶ。自己言及的・楽屋落ち的(「コンテンポラリー」とはコンテンポラリー・ダンスのことで、それは振付で参加している矢内原のやっているダンスのことだ、という理解が必要)発言で笑いを取りにいっているのだが、準備公演では起きた客席の笑いも本公演の舞台に散乱する過剰な情報の中にあっては、滑るしかなかった。それはともかく、ここで岩崎は(それすらも演出であるとはいえ)岩崎自身としての発言をしたのであり、いわば底を打ってみせたのだ。舞台の冒頭では、中地として物語を駆動させていた状態からどんどん物語の解体が進んで、配役の褪色していき、ついにここで岩崎自身が出てきたというわけだ。

岩崎は《トーキョー/不在/ハムレット》のナビゲーター役である。彼の演じる中地は舞台の前半で、小泉首相に宛てて、北川辺町での事件の解明を訴える手紙を読みながら書くのだが、その内容によって、観客は出来事の概要をかろうじて把握することが出来、物語への興味を強化することになる。

中地という人間は、贄田たちと共に幽霊を見たとは言え、事件の渦中には居ない。いわば、運良く事件に間接的に関わることの出来た野次馬である。そんな幸運は滅多にないから、自分の身近に発生した事件との距離間も掴めないし、権力との距離感も掴めない人間だ。

こうして観客をまず混沌状況から物語へと一旦誘った岩崎は、続いて舞台上で進行する物語の解体と並行して、観客を物語の周縁へと連れ出していく。岩崎が演じる第二の人物、松田鶏介の会社の上司・加藤唯哉は、最も物語から遠くにいる役だろう。ガートルードに相当する牟礼真由美すらキャスティングされていないというのに、なぜ加藤が登場し、鶏介と会話するシーンがあるのか。それは、加藤が、事件の外側にいる人間の代表だからではないか。加藤は物語のために登場したのではなく、事件(スナック「銀世界」爆破事件)の外にいる人間の反応を見せるために用意されたのだ。マスメディアで事件を知って、外部から好奇心を募らせる人間。ここまではかろうじて物語の地場の圏内だ。

物語からパフォーマンスへ、舞台を進行させる駆動力の引き継ぎが進行する過程では、観客の欲求は物語への同化から野次馬的なポジションへと移っていく。それは、まさしく加藤に代表されるポジションである。スクリーンの映像を観ながら、舞台のスリットの向こうで進行する芝居を覗く時、観客は、茶の間で怪しげな事件のニュースをTVで観ながら、現場で当事者たちの間で生じている出来事をあれこれ妄想する日常と同じポジションにいつの間にか座らされていることに気づくのだ。

パフォーマンスへの引き継ぎが完了する頃には、そうしたポジションも解体されてしまう。あとは、この難しい上演をやり遂げた若い役者たちがそこに居て、観客は、彼ら一人ひとりが配役名と俳優名のテロップ付きで紹介されていくスクリーンを観ながら拍手を送るのだ。(了)


(*)本公演のプログラムに掲載された宮沢と青山真治の対談を読んだら、青山が次のように気を遣いながら言う下りがあって、「その通り!」と激しく頷いたものだ。

本公演の一連の流れっていうのは、最終的には大河内さんにも出演してもらうわけだけど、事情を知らない人が見ると、「これは宮沢が自分のためだけに若いやつをこき使ってやってる」って思うというか、「なんか随分な話だな!」って思われるかもしれないわけじゃないですか。

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三浦演出の今日性(地点「雌鶏の中のナイフ」)

1月6日、青年団リンク・地点『雌鶏の中のナイフ』(1月1日~23日、アトリエ春風舎)を見る。デイヴィッド・ハロワーの戯曲は、自分の記憶を文字によって外在化させることで起こる認識の変化を、女の自立のプロセスに重ねるという、なかなか興味深いもののように思われた・・・と、歯切れの悪い言い方になるのは、演出のせいで不明瞭だったからだ。少なくとも、男と女を巡る俗っぽい話と世界認識に関わるような神聖なテーマが不思議に混合されていたことは間違いないだろう。

この目新しい戯曲は面白そうだ・・・戯曲への関心が高まると、その分、演出への苛立ちもより募ってしまう。三浦基の演出はいつもの如く、セリフの意味を掴みにくくするだけでなく、各人物の所在や出来事までを曖昧にする演出だ。「戯曲のことは気にするな、オレ流の世界に集中しろ!」と演出家に命令されている気分。

三浦演出は「アングラのモノ真似だ」という説を聞いたことがある。表面的にはそうなのかもしれないが、ベクトルはまったく逆向きだ。かつてのアングラが戯曲に対して役者の肉体を復権させたのに対して、三浦はその逆のことをやろうとしている。戯曲が演出家の自己表現の素材にまで転落しているのに加えて、役者もまるで舞台美術の一部であるかのようだ。

行動範囲を極度に限定し、行動パターンも制限して貧しく様式化しているところが、役者の身体を装置的(機械)に見せている。そして、”三浦語”による台詞発声は、役者の身体と声を分離する。台詞は戯曲上の会話の相手(つまり舞台上のもう一人の役者)の方を向いて発せられるのではなく、観客の方に向けて発せられる。しかも、会話の間合いはアンサンブルを聴くかのように予定調和的にテンポの調整が共同で図られている。つまり、役者は、個々の存在として台詞を語ったり、相手の台詞に耳を傾けたりはしていない。役者たちは、演出家によってコントロールされたリズムとアーティキュレーションを分担して演奏する一組の舞台装置として、観客に提示されているのだ。

こう書くと、アングラ志向というより、ギリシャ悲劇志向なのかとも思うが、コロスの体現するのが共同体であるのに対して、三浦演出では、役者たちは彼のメディアとなるのだ。

それでは、ときおり噴出する痙攣的に激しい行動や極度に歪められた発声こそが、こうした演出家の圧政を突き破って出現する役者の身体だというのだろうか? そうではなさそうだ。それもまた、演出家の権力の圏内にあり、彼の自己表現にしか見えない。

しかし、戯曲の上演、役者の主体性、演劇のポリフォニーといった観点から、三浦演出を批判するのはそもそも不毛なのかもしれない。もっと別の観点から舞台を眺めれば、こういう公演が行われていること自体、とても今日的なのではないか。

例えば、なぜ安部聡子のような、何をやっても神経質なインテリ女性にしか見えない女優が、自分の資質とはまったくそぐわない役を引き受けて、こうしたパフォーマンスを演じているのか? 小林洋平だって、ワイルドな粉挽きというよりは、今どきの優しい若者にしか見えない。彼らの担うべき役と、彼らの身体の実際とのギャップは、熊倉敬聡が珍しいキノコ舞踊団の舞台を見て憂えた、エロスと向き合う術をしらない身体を想起させる(*)。

そうだ、そう考えた時、地点の舞台における演出家の圧政とは、私たちを去勢し、私たちの身体に浸透していく制度のカリカチュアに見えてくる。そして、アトリエという空間は、私たちがそこから出る方法を思いつけないでいる見えない密室のことだ。この舞台に出現しているのは、エロスの萎えた身体たちが、強引に神話的存在になろうとして、密室の中であがいている--そんな光景なのだ。

たちが悪いのは、演出家は役者の身体を支配すると同時に、役者が圧政に抗するための偽の回路も用意しているところ。それが、前述の「ときおり噴出する痙攣的に激しい行動や極度に歪められた発声」という演出手法であり、すべての登場人物が神話的な様相を帯びる戯曲を取り上げるという選択--「密室から出られないなら、密室を世界と思おう」という回路だ。とすれば、青年団リンク・地点の見所は、三浦演出のケレン味などではなく、青年団の役者たちがいかに彼の圧政に馴化されているか/されそこなっているか、という微妙な境界線にあるのではないかと思えてくる。80分。

(*)熊倉敬聡「珍しいキノコ舞踊団の『フリル(ミニ)ワイルド』を観て考えたこと」、『舞台芸術01』(京都造形芸術大学・舞台芸術研究センター)収録

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”三浦語”のための舞台(地点『じゃぐちをひねればみずはでる』)

三浦基の分節やイントネーション、テンポ、発音を操作してセリフに強いディストーションを掛けるやり方(一部で”三浦語”と呼ばれているらしい)に出会ったのは、03年11月にアトリエ春風舎で上演された 『三人姉妹』 (地点第5回公演)を見た時だった。それは観客にセリフのリテラルな意味から距離をとらせ、発語する行為に注目させた。それ自体は新しいことではないが、役者の身体の扱いやスピード感と相まって、突風が観客の身体を吹き抜けていくような、そんな新鮮なチェーホフ体験させてくれた。演出は単に奇抜さを狙ったようなものではなく、台詞の意味は犠牲にしつつも、『三人姉妹』の解釈の上に構築されていた感じた。

次は04年1月にこまばアゴラ劇場で上演された、ノルウェーの作家ヨン・フォッセの作品 『眠れ よい子よ』『ある夏の一日』 (第6回公演Bプロ)。ここでは”三浦語”はぐっと控えめになった。俳優3人が客席の前にスタンダップコメディアンのように並んで立って行う短編『眠れ よい子よ』はともかく、『ある夏の一日』の方は、「シャツ」を「シヤツ」と発音するとか、そんな細かな使い方が多かった。こういう小技は邪魔である。ところどころの”三浦語”が気になって、他へ振り向けるべき注意が奪われてしまう。”三浦語”の必然性が見いだせないならこだわるべきではなかろう。彼はこれをトレードマークにしたいのかと訝った。一緒に公演を見た人は「孤独な人の退屈な気分が表現されている」と好意的に受け止めていたけれど。

そして今回の公演、詩人・飯田茂実のさまざまなテキストを素材に三浦が自由に構成した 『じゃぐちをひねればみずはでる』 (第7回公演。こまばアゴラ劇場、9月18日のマチネを見た)である。なぜ今回、こうした台本が選択されたのか。私は、三浦が”三浦語”こそ自分のアイデンティティと考えて、それを最大限に生かす素材を選ぼうとしたように思えてならない。そして、その目論見はかなり成功していたと思う--その点で楽しめる舞台だった。でも、これではほとんど”三浦語”のための”三浦語”ではないか。注目される若き演出家にしては、自ら取り組む仕事の選び方に野望がなさ過ぎると思った。

”三浦語”はそれ単独では単なる演出の一技術でしかない。役者の身体をどう扱うか、という問題と一緒に取り組んでこそ、”三浦語”は探求するに足る演出法を形成する、その一要素となりうるだろう。『三人姉妹』では、三人姉妹が終盤までほとんど動かないという選択と人形のようなぎこちない動きが演出上の必然を感じさせた。しかし、今度の作品では、役者の身体の扱いを演出家が持て余しているかのように見えた。見ていて、「なんでこんな動きしか思いつかないのか?」というもどかしさが募る。物を散乱させる、かき集める。バケツを両手に持って椅子の上に立つ・・・どうにもこうにも凡庸でしかない。

多くのシーンで中心を担うべき存在だった思える安部聡子がいつもの安部聡子のままなのは、彼女の俳優としての資質の問題もあるだろうが、演出家の責任も大きいだろう。彼女の担う役は、分別くささをこれっぽちも臭わせてはいけないのだと思う。一方、内田淳子はテキストを大量にまき散らす(カラオケまで歌う)説明的役回りを担うことが多い。それはそれですっきりした整理の仕方だが、三人しかいない舞台で一人がこれでは物足りない。彼女には一個の謎になって欲しかった。一番不満だったのは飯田茂実の使い方で、ほとんど舞台装置と化しているシーンも少なくなかったが、こういうものを見てしまうと、『三人姉妹』の演出も、演出上の必然性ではなく、単に役者を扱い切れないが故の選択だったのでは?という疑惑も湧いてくる。

しかし、半眼状態になって主に耳で舞台を見ることにしたら、私にはかなり面白かった。中学生時代、日曜日の夜はいつもベッドでNHK-FMで「現代の音楽」を聞いていたのだけれど、今度の公演を聴いて、20数年も前のことなのに、ジョージ・クラム『死の歌、ドローンと繰り返し』 "Songs, Drones, and Refrains of Death"(1968)を耳にした時の興奮を突然思い出した。テキストとなったロルカの詩は全然分からなかったけれど、それが死についての歌であるという情報だけで十分だった。子ども部屋の暗闇の中でヘッドホンから聞こえてくるバリトンのボイスパフォーマンスや楔を打ち込むようなパーカッションの響きに、存在の不安をひりひりと感じていた。蛇口を捻れば、水は出る--今では当たり前にし思えないそんなことが、まだ謎めいて感じられた年頃の、世界を見る眼差し(給水システムの仕組みがわからなかったということではなく、事物がそうなっていることの不思議さへの感受性の問題)。

世界を前にした子どもの問い--「だうしてだうして、なんでかな」というリフレインは、執拗にリフレインされることでリテラルな意味を一回ほとんど失う。けれども、無意味なフレーズとして観客の身体に染み込んでのち、後半になって内田淳子が編み物をしながらつぶやくのを聴く時、観客は自分がかつてその問いを発した子どもになったように感じる。この作品で”三浦語”が成果を上げる瞬間だ。

先日、いつもWeb上のいろいろ有益な情報を教えてくれる手塚さんから、この公演について舞踊評論家たちの意見が大きく分かれていることを教わった。「読んだ方がいいですよ」と言われて閲覧してみると、絶賛しているのは武藤大祐氏、やや誉めなのが桜井圭介氏、酷評しているのは門行人氏。この際、識者の多様な意見を比較して参考にさせてもらいたいところだが、これがなかなか難しい。「完全に人真似」と言われても、それは表面的な類似ではないか、という思いを抑えることが出来ないし、やはり山ほど評論家がいようと、自分自身で判断して見ていくしかないと思った。三浦が「三浦語の人」を越えることに期待して、今後もしばらく見ていきたい。

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「東京の、バスでしか行けない住宅街」(桃唄309)

前の記事の続き。
1968年生まれ、山形県の果樹園農家と自衛隊駐屯地の町出身の阿部和重が、自分の故郷を舞台に日本の戦後の退廃を描き、1964年生まれ、北海道十勝平野の小さな町出身の鐘下辰男が、ニュータウンの閉塞状況を土地の伝説と結びつけて描いた(鐘下の場合、彼が脚本を書いた[ 蝦夷地別件 ] (六本木俳優座で2月に上演)という作品があるらしいが、残念ながら私は見ていない)。土地の歴史性と今の私たちの暮らしを巡る問題系で、これらの作品よりも私にとってもっと身近なものになるはずのものは、1967年生まれ、東京出身の長谷基弘による、おそらく上演会場のある中野区辺りの再開発がテーマになっている[ おやすみおじさん2-影食いと影吐き ] 劇団桃唄309により4月に中野ポケットで上演)でありえたはずだった。年齢と出身が自分に近い上、芝居のチラシに書かれた「東京の、バスでしか行けない住宅街が主な舞台の。」というコピーは、まさに私が子ども時代を過ごした場所のことだったからだ。

だから相当期待して見に行ったのだが--ちなみに、桃唄309も鐘下辰男の舞台も今回初めて見た--、それだけに失望も大きかった。フタを開けたら、実際、ノスタルジーに充ち満ちた舞台だったが、物の怪たちと山伏みたいなおじさん、悪役らしき妖術使いが入り乱れて戦う、子ども向け勧善懲悪ドラマのごとき展開の芝居だったからだ。役者たちがふすまのような書き割りを持ち歩くことで背景を瞬時に作る「自立不能舞台装置」によって、目まぐるしく場面転換するので、それこそ、子ども時代に戻って「仮面ライダー」のようなTV番組でも見ているようなノスタルジーを味わわせてくれる。

しかし、あるシーンの後、別の場所で交わされた一言のやり取りを見せるために、ほんの十秒かそこらその場面を作ってみせるというのは、映像というメディアではメディアの欲望に沿っていると思うが、演劇においては想像力を奪うやり方としか思えない。とにかくせわしないことこの上なく、舞台を象徴的な場としてみる余地が与えられない。こんなやり方では、テーマと方法論が矛盾しているのではないか。

結局、この世と別の世界を行きつ戻りつしつつ繰り広げられる戦いを追いかけるのに精一杯で、長谷が再開発の問題をどう考えているのか、よく判らなかった。まさか、「再開発によって、物の怪の生きる余地がなくなってしまう」とか、そんなことだけが言いたいのではないだろう。新興宗教の道場や健康食品の店(そういえば、『シンセミア』の田宮家の次男は東京で健康食品の店をやっているのだった)が商店街に出てきているという設定にも何かあると思うのだが。この作品は全10作で構想された「おやすみおじさん」シリーズの第2作なので、もっと他の作品も見ないとよく判らないのかも知れないが、4月に見た一作で付き合おうという気力を失った。

私は東北地方で数年間暮らしていた経験があるが、その時に東京にノスタルジーを感じたことは一度もない。周囲の友人たちが郷土愛を漂わせる口調になったり、ホームシックにかかったりするのに接すると、その自分には抱きようのない土地との情緒的つながりに、彼らを羨ましく感じたりした。東京に戻ってから、かつて自分が過ごした地域を訪ねてみたことがあった。すると、懐かしさを感じることが不可能なほどに風景は変わっていた。それを見て、もはやその土地の名前を挙げて、自分はそこで育ったと言うことがはばかられる気がしてきた。そして、その後も風景は変わり続けた。これからもどんどん変わっていくと思う。不景気なぞどこ吹く風で、今現在も東京の各地で再開発は進行中だからだ。東京をちょっと歩けば建設現場が目に入る。東京の住宅街では、土地の名前は単に位置を示す記号だったり、実体を伴わないイメージのようなものでしかないのだ。

「クニはどこですか?」--地方で暮らしている時、そう訊かれることは頻繁にあった。新しい出会いのたびに訊かれると言っていいくらいだ。彼らは、出身地を人を理解する上での重要なファクターだと考えている。「東京です」--は、最もつまらない回答だ。彼らはちょっとガッカリし、人によってはちょっと妬む。質問者の頭の中に、土地の風土や歴史的イメージ(それらは得てしてステレオタイプなものだが)の代わりに、TVで頻繁に目にしている都会の映像が浮かぶからだ。

そんな彼らの認識は、案外正しいのかも知れない。ビルド・アンド・スクラップの「東京の、バスでしか行けない住宅街」は、TV画面に氾濫するイメージのようなもの(シュミラクル)に覆われているとも言えそうだから。しかし、やっぱりそれだけではないと思うし、仮にそうした属性が主だとしても、歴史性の空虚な土地に生まれた人間ならではの生き方やアドバンテージというものもあるだろう、という気がするのだ。何も住宅地に残された神社にすがりついて、神様や物の怪を呼び寄せなくたっていいはずだ。そういうビジョンを見せてくれるような芝居がぜひ見たい。

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ニュータウンと土地の伝説(『求塚』/『シンセミア』)

今更だが、7月に三軒茶屋のシアタートラムで上演された鐘下辰男[ 現代能楽集II 求塚 ] について書く。この芝居の大筋は、ニュータウンで児童の首が切り落とされるという猟奇殺人事件が発生。原因は、不倫がらみの嫉妬と復讐の結果である--そんなありふれたワイドショー的な事件の解読を、ジャーナリストが聞き込み調査で覆していくプロセスである。調査が進み、当事者たちの出自が明らかになっていくと、事件は、その土地の伝説に基づく生け贄の儀式の復活という様相を帯びていく。そして最後に、出演者一同によって神楽が舞われて芝居は締めくくられる。まるで、「龍神の森」という聖域を破壊し、鬼を鎮魂する祭りを忘却したことが過ちの本質であり、その過ちをいま取り返そうとする身振りのように見えた。だが、本当にそんなことが過ちの本質なのか?

能楽の想像力をいかに現代劇に生すかという難問に対して、鐘下が提出した回答--舞台の使い方、役者の使い方--はとても面白いし、よく考えられていると思ったけれど、それはともかくとして、この芝居の構造が気にくわなかった。

私は、物心ついたときから団地で生活してきた人間なので、団地の暮らしがもつ閉塞性とニュータウンでの暮らしの閉塞性を重ねることで、鐘下が取り上げた問題系は実感できていると思う。世間という網の目から一時的に外れることが出来る場所、非人間的なもの・超越的なものに触れて、自分を精神的に解放できる場所--そういった余白・余地を、団地やニュータウンは生活圏の中から欠落させてしまっているのだ。子ども時代に、団地の中の人目に付きにくいちょっとした場所を探しては、そこを何か特別な場所、秘密の場所と見なしたした記憶がある。そういう時は、その場所が別世界へ通じているなどの特別な力を秘めていることを夢想したものだが、あれは、無意識に自分の「龍神の森」をねつ造する遊びだったのだと思う。

鐘下はそうした問題系を、登場人物のジャーナリストに、赤坂憲雄の『排除の現象学』を引用させたりして説明するのだが、論文を芝居の中に長々と引用したりするのは、なんだか安易なアリバイ工作みたいで、好感がもてなかった。ネタを芝居に生のまま持ち込むのでは芸がなさ過ぎる。赤坂がロジックで書いたことをそのまま読む代わりに、演劇を通して観客にそれを実感させてくれよ、と思う。

話題が逸れた。私がこの芝居で違和感を覚えるのは、ワイドショー的話題として提示された猟奇事件--風変わりではあるが、時々話題になるたぐいの事件の一つという位置づけ--の根本に土地の伝説を置くという態度である。最後の神楽の身振りは、そうした態度を示しているのだと思う。しかし、そんなオカルト趣味はアホらしくて受け容れられない。

仮に、事件の根本が問題なのではなく、ニュータウン造成によって人々が抱え込むことになった心の闇がここでは指摘されているのだと考えても、やはり納得できない。確かにニュータウン造成は、その土地で継承されていた民俗信仰と密接につながる土地の構造を破壊した。しかしだからといって、昔の民俗信仰を取り戻すべきだとは思えない。いまさら無理だし、それが正しい対処方法だとはどうしても思えない。だいたい、「土地の言い伝え」なるものに、私たちの暮らしを宿命付けるどの程度の正統性があるというのか・・・。

今になってこんなことをブログに書く気になったのは、夏休みに阿部和重の小説『シンセミア』を読んだからだ。この小説は、阿部の故郷である実在する場所・山形県東根市神町を舞台とする2000年の7月から8月に掛けての架空の物語なのだが、この小説においては、現在の猟奇的事件と民俗学的想像力に基づく土地の歴史とが、鐘下の演劇とはちょうど正反対のベクトルで結ばれていく。鐘下の演劇が猟奇的事件を掘り起こしていき、「土地の言い伝え」に辿り着くのに対して、阿部の小説では、アメリカ軍駐留に始まる町の精神的荒廃を起点に、延々と穀潰したちの腹のさぐり合いや脅し合い--彼の小説ではお馴染みの卑猥で妄想に満ちた男たちの抗争が繰り広げられる。その結果として、終盤に10人もの死体が積まれる事件が同時多発するのだが、それが祟りでもなんでもないことは読者は内部事情を知らされているため判っている。ところが、町民たちは内部事情を知らないため、終盤の事件の前から起こるさまざまな予兆的事件を、オカルト的に処理しようとする。阿部はそうした町民の心理が、町のゴロツキである老いた新聞配達人に誘導されて生じたことまで書いているのだ。そして、土地の伝説に基づく神様も宇宙人との交信といったエセSFも一緒くたに扱われているところに、たとえばオウム真理教みたいな宗教もどきが一定の民心を集めてしまう現状を揶揄していると見ていいだろう。

私にはこっちの方が遙かにリアルに感じられる。小説の描く神町の闇の戦後史--アメリカという外部権力に便宜を図ることで、ヤクザ、自治体と癒着した建設業者、不動産業、そして日本政府がアメリカ指導の下に行ったパン食普及政策という日米関係の徴を刻印された「パン屋」が闇社会を形成して、町を影から支配する--が、日本の戦後史を揶揄するミニチュアであることは明らかだろう。そして、2000年になって、町民たちが民俗信仰に目覚めたり、オカルトに走ったりする影に、第二次大戦の体験で少し現実認識がおかしくなったゴロツキがいるという設定には、現在の閉塞状況を「古き良き日本」を持ち出すことで乗り越えようとするベクトルに対する批判が込められているように思う。そんなベクトルの根っこにあるのは、高度経済成長で忘れられた「古き良き日本」などではなく、敗戦のトラウマなのだ、と阿部は言っているようだ。

素晴らしい存在感を見せた千葉哲也らの好演にもかかわらず、[ 求塚 ] が一本調子の単調さを免れなかった一つの理由は、プロセスを進行させるジャーナリスト瀬川(今井朋彦)が何者であるかが定位していなかったことにあると思う。ニュータウンに対して超越的な地位を確保した真理の追求者?・・・そんな人物は演劇上の必要でしかあり得ず、芝居をつまらなくするだけだ。彼に『シンセミア』の新聞配達人・星谷影生くらいの造形があれば、芝居はもっと立体的になり得たはずだ。もっともそうなると、能楽「求塚」の構造からますますズレていってしまうだろうが。

ついでながら、鐘下の[ 求塚 ] と阿部の『シンセミア』にはほかにも類似点がある。顕著なのは、町の権力者の二代目たちが、町のあちこちにビデオカメラを仕掛けて、盗撮をして楽しむグループを作るという設定である。「人目があるから」というセリフが印象的に何度も発せられる鐘下の芝居で、盗撮用のカメラが世間という陰湿な権力の比喩であることは、阿部がそれを「監視網」と呼んだのと同様だろう。あと、細かなところでは、それぞれの物語の中心となる家([ 求塚 ] は楠木家、『シンセミア』は田宮家)には相田みつをの日めくりが掛けられているところが共通している。鐘下も阿部も共に、相田みつをを揶揄の対象として導入しているのであり、それが楠木家や田宮家の精神的危機を暗示する小道具になっている。

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