長嶋有『夕子ちゃんの近道』:癒しと経済の狭間で

夏休みギリギリに書く読書感想文じゃないけど、長嶋有『夕子ちゃんの近道』についてざっと書きとめておきたい。
7つの短編からなるこの連作は、大雑把に言えば、疲れちゃって何もする気のなくなった「下流志向」の語り手が働く(おそらく会社勤め)のを辞めて、ある小さなコミュニティに暖かく受け入れられて、そこで、互いに適度な距離を保ちながらも関心を持ち合う人間関係を経験し、癒される話である。

コミュニティとは、語り手が住み込みで店番のアルバイトを始めたアンティークショップ「フラココ屋」を中心とする人間関係だ。店主、店の大家、大家の孫娘姉妹(朝子さん&夕子ちゃん)、店に入り浸る瑞枝さん。あと、周辺的な人物として、向かいのバイクショップの店員、夕子の彼氏、店主の元カノのフランソワーズがいる。

以下、特徴的なことをメモる。

1.浮遊する現在
癒されたからといって、語り手が再びしゃっきりして働き始めるとか、目標に向かって活動し始めるといったような兆しは一切見られない。他のコミュニティのメンバーに関しては、なんとなく今後の変化が想像されるような動きが見られるのだが、主人公である語り手の未来のみは白紙である。

また、語り手が無気力になってしまった原因や、コミュニティへやってくる経緯も一切語られない。昔の彼女のことなど、過去を瞬間的に回想する場面もあるが、それは現在とは遠く隔たった過去であり、小説が描く時間は、それに連なるはずの過去とは完全に切断されている。

こうして、現在への意識のみが浮遊した状態で呈示される。「思考停止」あるいは「モラトリアム」などと、語り手自身が形容するのであるが、未来への投資や過去との比較といった捉え方から解放されて、「いま・ここ」への感性が息づく。また、社会的な価値よりも、身体的感覚に重きをおいた意識の分配がされるようになる。

2.成長・生産・効率の拒否
語り手は、コミュニティで関心を持ち合う人間関係に目覚めたようではあるが、ある程度癒されたら、コミュニティからこっそりと抜け出してしまい、その後、瑞枝さんから、大人のすることではない、といった批判を遠回しに受ける始末だ。主人公は癒されたが、かじかんでいた気持ちが緩み、和んだだけで、成長物語ではないのだ。

このことから、小説の描く時間は、主人公の人生のなかで、まともに働く人生の間に挿入された一時的なスランプとして位置づけられるのではなく、これこそが彼のこれからの日常であると受け止められる。

「そんなことしてどうするのって問いかけてくる世界から、はみ出したいんだよ」(「夕子ちゃんの近道」p.61)
語り手が、朝子さんの箱作り(美大の卒業制作)と妹の夕子ちゃんのコスプレを弁護して述べる言葉だが、そこには、語り手がやってきた生産性重視、効率性重視の世界への批判が込められているように思われる。

タイトルに使われた「夕子ちゃんの近道」も、近道というと効率性を求めているようだが、実はそうではなく、通学という労働を、スリルと楽しみに満ちたものにするための手段であることがわかる。途中で自転車を降りて柵を乗り越えて人家をすり抜けていくくらいなら、まともに自転車で駅まで行った方が早いのではないかと推察すれば、彼女の近道はむしろ非効率ですらあるかもしれない。

3.コミュニティの非生産性
コミュニティを経済面から見てみる。大家はすでに所有している不動産からの家賃収入で生活、孫娘たちは学生だから祖父に依存。フラココ屋はおそらく赤字(インターネット販売ではそれなりに収益を上げてはいるようだが)で、小説の終盤では店をたたむことを検討している話が出てくる。本店を実家の蔵にしているところから、おそらく親、あるいはそれ以上前の代の富の蓄積に依存することで、店主は営業を存続できていたのではないかと思われる。そして、ほとんど大した仕事のない語り手は、そのおこぼれに与る存在だ。そして、瑞枝さんはイラストレーター蒹ライターで、口振りから日々の暮らしと収入をバランスさせているような状態と想像される。

つまり、このコミュニティはだいたいが過去の富の蓄積に依存することで存続できている。そうした下部構造が、メンバーたちがまったりと生きる(学生たちは経済とは別の理由でそれぞれに生きづらさを抱えているが)日常を支えているのだ。

そんな日常が、癒しの場として一種のユートピア的に描かれているところが実に現在的である。ただし、決して無時間的な世界が幻想されているわけではない。語り手以外は動いていて、このコミュニティがいつまでも維持されることは期待されない。そこに、この小説の複雑な味わいが生まれていると思った。

4.コミュニティ内の距離感
高校生の夕子ちゃんは妊娠して結婚、朝子さんは別居していたドイツの父のところへ移住、瑞枝さんはイラストレーターとして本腰を入れるために引っ越して、別居中の夫と正式に離婚もする、と言った具合にさまざまな出来事が起こるし、そうした事件は登場人物たちを苦悩させるのだが、登場人物たちはほとんど内面を吐露しないし、語り手も隠されていることを推理したりしない。

こうした互いの内情や内面に踏み込まない関係は、コミュニティのメンバーが、語り手が参入してから半年も経過しているのに、語り手のフルネームを知らなかったというエピソード(「僕の顔」)によって鮮やかに印象づけられる。このコミュニティにおける正しい距離の取り方がそういうものなのだ。例えば、瑞枝さんの次の言葉にそうした感覚が表明されていると思う。

「嫌っていうのは……そういう嫌じゃなくて。病気で弱っている人をみると、可哀相だし、仲のいい人なら心配だけど、でもそれがどんな親友でも、少しだけうっとうしいじゃない」そして本当は、少しじゃなくて、すごくうっとうしいの。お見舞いにいくときなんか、他人の前では不謹慎になるからいわないけど、でも、うっとうしいの。(「幹夫さんの前カノ」p.96)

5.読者もコミュニティの一員
語り手は自らの過去や思考過程を語らないし、コミュニティのメンバーに生じるような前述のような出来事についてもほとんど説明されない。したがって、読者が語り手を含むコミュニティ全員に対して持つ情報量は、コミュニティのメンバー同士が相手に対して持つ情報量と同じくらい少ない。

この点もこの小説の大きな特徴で、読者は語り手を通してコミュニティの世界を覗くのであり、そのため必然的に語り手の身体を借りるほどの密着的な距離を持つのだが、一方では、コミュニティが距離を取りつつ彼を見守るような距離間を、語り手に対して感じざるを得ないようにできている。つまり、読者も、他者への関心という次元では、コミュニティの一員として語り手を含む登場人物たちと同じ地平に立たされるのである。

この小説を読む楽しみの大きな部分は、コミュニティの日常を楽しむところにあると思うのだが、それを楽しむ読者の立ち位置として、この仕掛けが大いに貢献している。全能の神でもなければ、主人公と同一化してもいないし、単なる傍観者とも微妙に違う。

反対にこの仕掛けを楽しめないと、「All About」の評者のような拒否反応が出てしまうのだろう(しかし、酷いなこの評者は)。

6.顕在化する身体感覚
では、「コミュニティの日常を楽しむ」とは?
ドラマを形成するはずの前述のようなさまざまな事件からは距離を取る代わりに、小説の記述では、日常の忘れられていた身体が顕在化している。生活のための労働(ホースで水を汲む、ガラス拭き、・・・)がもたらす身体的な快楽。意味よりも音声を優遇する言葉遊び(化粧品の名詞をSFアニメ?の名詞になぞらえる遊び、インシタンスコースー・・・)、唐突に想起される身体の記憶(学食の思い出、・・・)、身体の場に対する反応(フランソワーズのアパルトマンからの眺め)などなどだ。


 さっき夕子ちゃんがのぞき込んでいた窓から、中庭を見下ろした。
 見下ろすのは二度目なのに、もう見慣れているのが、なんだか不思議だった。(「パリの全員」p.229)

これは小説の一番最後のところ。語り手がフラココ屋に越してきた時、二階からの眺めに見慣れるのには、もう少し時間が掛かったのではないか。フランソワーズのアパルトマンからの眺めにすぐに慣れたのは、コミュニティのメンバーが作り出す空気が、語り手にそこを自分たちの場所であると感じさせたからだろう。こうした身体に生じる微細な感覚に対する感受性を生き生きとさせることが、この小説の読書の楽しみであり、同時に、語り手の癒しになっている。

0.癒しと経済の狭間で
語り手は「下流志向」を選択し、生産性・効率性と別れを告げることで、優しいコミュニティのなかで、生き生きとした身体への感受性を回復した。しかし、それは、過去の遺産に依存することで可能になっている生活である。すでに見たようにコミュニティの経済自体がはなはだ心許ないものだ。

語り手については、実はコミュニティから離脱しても、帰る家もあれば、それなりの貯金も持っているという設定だが、それがいつまで語り手にニート状態を許す資産であるかは不明だ。ある誤解から、コミュニティのメンバーは、語り手が実は大金持ちの坊ちゃんだったという想像をするシーンがある。もしそうであれば、語り手は死ぬまでこの日常を続けることが可能だろう(少なくとも経済的には)。実情が明らかにされないから、この可能性が完全には否定されたとは言い難い。けれども、これは現実の限界を暗に示すために書かれた空想なのだという印象が強い。

それなら、どうやって、暮らしを維持する経済活動と、こうしたコミュニティの持続や身体への感受性の確保とを両立させるのか--その答えがほしいところだ。けれども、「答え」は最後の短編「パリの全員」でも見えそうで見えない。

瑞枝さんはこっちで友だちに会う予定があるらしい。店長はのみの市。僕はそれに付き添い、夕子ちゃん夫婦は新婚旅行らしく観光をし、あさってからはドイツに暮らす父親と姉を訪問する。皆、目的はばらばらだ。いつもなにかが我々をゆるく束ねている。日本では店が。フランスでは、不在のフランソワーズが提供してくれる家が。(「パリの全員」p.222)

店とか家とか、地理的な場所が与えられなければダメなのだろうか。そんなことはないような気がする。そして、やはり語り手も、何か始めなくてはいけないだろう。人間関係においても経済的にも恵まれている語り手にとって、「答え」を見つけるのはそんなに難しいことではないように思える。

しかし、そうした「答え」を書いてしまうと、この小説全体の持つ雰囲気が壊れてしまうことも確かだ。解決はこの小説には似合わないのだ。それはこの小説の外側で読者が考えることだ。

実は、この小説の重要な読書体験のひとつは、本を閉じた瞬間に得られるのかもしれない。自身もコミュニティの一員として癒された読者は、本を閉じた時に、一足だけ先にコミュニティから離脱する感覚を覚えるのだ。

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解けない謎(『ケルベロス第五の首』)

図書館で予約していた話題の難解SF小説、ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』(柳下毅一郎訳,国書刊行会,2004)の順番が回ってきてしまい、仕方なく忙しい最中に読むことになった。3部構成の中編のうち、小説として楽しめたのは最初の1編だけで、あとは謎解きに頭を悩ませることになった。謎は解けない。『SFマガジン』(2004年10月号ジーン・ウルフ特集)の鼎談を読んでもわからない。返却日が来て、本が手元になくなっても頭を離れない。これはほとんど災難だ! 以下、取り憑いてしまったやっかいな想念を追い払うために、SFにもミステリーにも疎い人間が記憶を頼りに行った、いい加減でしかも途中で放棄している推理を記しておく(誰かもっと理にかなった推理を教えてくれればいいな、と虫のいい期待をしつつ)。

「ヴィクター少年がサント・アンヌの奥地でマーシュを殺してすり替わって戻ってきたという説」(以下、マーシュすり替わり説)は、鼎談で翻訳者らが太鼓判を押しているように、ヤード・ポンド法とメートル法の使い分けなどの状況証拠を筆頭に、その出来事を暗示する記述はいくつもみつかる。例えば、自分自身の会話を分析するという奇妙な暗号の解読法は、彼がオリジナルのマーシュからなんらかの方法で盗み取った記憶を探ることが暗号の解読に役立ったということを意味しているのではないか。

しかし、それをとっかかりに謎を解こうとするときに、まず考えなくてならないのは、アボ(原住民)が人間にすり替わるとして、そのすり替わりの過程と、すり替わった結果がもつオリジナルとの差異がどのようなものであるかだ。それを暫定的に規定するために、仮説を立ててみた。

○アボに関する仮説
(A1)生物学上は人間とほとんど変わることがなく、DNAを調べても簡単にはわからない。従って「ソラリスの海」のように自由に姿を変えられるわけではない。多分、人間との交配や身体の部位の接合も可能であり、ヴィクター少年はハーフである。

(A2)人間を含む他者の記憶をまるごと自分にコピーすることができる。

(A3)たとえ人間の記憶をコピーした後でも道具の使用が苦手である。

(A4)他者の記憶をコピーした後でも、元の記憶を完全に失うわけではない。

(A5)一般的に人間よりも背が高く、成長も早い。

(A6)殺し、共食い、盗みに対する罪悪感に欠ける。

○仮説の説明
「ケルベロス第五の首」(以下I)で描かれているようにサント・クロアでは、クローンや身体部位の移植などの技術が発達している。このような遺伝子工学や医療技術がありながら、人間と人間になりすましたアボの区別をチェックできず、「ヴェール仮説」が論破されないためには、(A1)が必要と思われる。

(A2)は、(A1)を満たしつつ、アボが特定の人間に成りすますための条件である。個体を超えた記憶の交換は、「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」(以下II)でも言及されている。ヴィクター少年がハグスミスの真似をやってみせたシーンもこの仮説を支持しているように思えた。アボが人間になりすませることを否定しないのは、そうするとこの小説の面白さが半減してしまうから。、「V.R.T.」(以下III)に登場するマーシュのフィールドワークの記録にあるような、アボが一瞬のうちに自由に姿を変えたという伝承は民話と見なせばよい。

マーシュすり替わり説から(A3)が導かれる。記憶をコピーしているだけなのだから、人間とアボの隠れた差異によってこのような差異が現れてもおかしくない。さらに、マーシュになりすましたヴィクター少年は、自分の企みを隠蔽するために、嘘の記述(ヴィクター少年が死んだこと、猫に手を噛まれたこと)をフィールドワークの日誌に書いていることになるが、それが可能であるためには(A4)が必要であろう。牢獄のマーシュにもまだヴィクター少年時代の記憶の残滓が見られる。牢獄のマーシュがメートル法を使いだすためにもこの仮定は必要だ。

(II)はオリジナルのマーシュの採集した民話と思われる(ヤード・ポンド法で書かれているから)が、丘の民や沼の民の部族たちがアボに、影の子が人間に対応しているなら、アボは人間よりも背が高いことになる。牢獄のマーシュは、「2m20cmもある女性は結婚相手をみつけにくい」というような命題をまるで真理でも発見したかのように述べているが、アボの女性に対する人間男性の審美的評価は低かった。ヴィクター少年の母に対しても同様だった。そこで(A5)を仮定してみると、小説中で特別な意味を帯びてくる記述がいくつもある。ネリッサ、エティエンヌ嬢、そして「犬の館」に出入りする背の高い女性たちはアボである疑いが生じる。

(A6)はジーニー叔母さんが「ヴェール仮説」を打ち立てた理由であり、(II)や(III)のマーシュのフィールドワークなどからも支持される。

○仮説に基づく推理
(S1)サント・アンヌの住民の多くは人間である。なぜなら、(A3)から、もしサント・アンヌの住民がすべてアボのすり替わりであったら惑星の文明はかなり原始的なものになったはずである。従って「ヴェール仮説」は部分的に否定される。「自由の民」はアボを装うことで後続のアメリカ系の移民の支配を逃れたフランス系移民であろうが、そこには本物のアボも僅かに混じっていた。ヴィクター少年の母親のように。

(S2)逆にサント・クロアにはかなりアボが混ざっている。(A5)、(A6)からの類推で。(III)で士官が語るサント・クロアの政策から、奴隷や娼婦としてかなりアボがサント・アンヌから移入していったと想像される。第5号の父は、アボの女性たちが客の取れるように医学的な加工を加えていたのではないか。第5号の父が問題視しているようにサント・クロアが一向に発展しないのは、実はアボ濃度が高くなっているためなのだ。

(S3)第5号の父は、自分がアボなのかどうかを確かめたくて自分のクローンである第5号の深層意識を調べている。普通の意味での記憶は遺伝しないから、クローンの深層意識を調べることは常識的にはナンセンスだ。マーシュは、クローンを繰り返すことで年齢差以外に差異のない人間ができる(緩和法)と主張したが説得力に欠ける。父にとって意味のあるやり方は、自分のクローンと、そのクローンの記憶をコピーしたアボの深層意識を比較することではないか。

(S4)したがって、「犬の館」には第5号の他に彼の記憶をコピーしたアボが住まわされていると考えたい。おそらくそれはデイヴィッドだろう。彼は父とアボの女性の間に生まれたハーフで、父は薬物を使って、第5号の記憶をコピーするように誘導したのだ。彼の手先が器用なのは、父の医学的処置のおかげと考えることが出来る。

(S5)(I)の書き手はフランス語圏出身のアボである。(I)には文章の分断がある:父と第5号の対決のシーンにマーシュが立ち合い、背の高い女性がドアを閉めるところまで/ドアを閉める音/ドアが閉められた後、女性の背中の回想からと記述が断片化して*で区切られている。ここに記憶の断層があり、書き手はそれをその通りに記録したのではないか。つまり、断層の前は第5号のオリジナルから、すり替わった第5号が引き継いだ記憶であろう。そして、「センチ」という単位が、記憶の断層の直後に登場する。マーシュすり替わり説を採用するなら、このヤード・ポンド法からメートル法への転換も同様に説明付けなくてはならない。つまり、断層後の第5号はアボであり、しかもフランス語圏の出身だ。

(S6)マーシュは二人いた。牢獄にいるマーシュの回想によれば、(I)で第5号と父の対決の場面に呼び出されて立ち合う前に逮捕されてしまっている。そして、(I)の書き手によれば、対決の後で第5号が父を殺したにも関わらず、マーシュの逮捕の理由はこの殺人と関連した疑いとなっている。すなわち牢獄のマーシュが嘘の回想を書く理由がないのなら、マーシュは二人いたか、(I)の書き手が記憶の断層以降で嘘をついているかのどちらかになる。(I)が自分自身を明らかにするために書いているのなら、嘘は書かないだろうから、マーシュは二人いたと考えられる。オリジナルのマーシュは生きていたという説が浮上する。

(S7)「マーシュすり替わり説」と(S5)から、フランス語圏出身のアボがヴィクター少年以外にもう一人いて、それぞれがマーシュと第5号にすり替わったと考える必要がある。「マーシュすり替わり説」を重視するなら、第5号にすり替わったのは、サント・アンヌから「犬の館」へやってきた小説では言及されていないアボということになってしまうが、第5号の深層記憶にはフランスの教会などが出てくるので、これはデイヴィッドでもいいのかもしれない。

この後はうまく説明が出来ない。おそらくアボの仮説として、(A2)は不十分で、記憶の交換や記憶の融合が可能なのではないか・・・この辺で匙を投げる。「私は何者なのか?」と自分に問うても答えはでない。これから何者かになっていくよりほかないのだ、などと呟きつつ。

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『シンセミア』(3)--悪意の「読書モデル」

『シンセミア』は最後まで正体を明かさない語り手によって、基本的に三人称で語られている。無論、三人称で書かれた小説の常套手法である、登場人物の意識が入り込む部分(独白的な部分。”一人称化”している部分)は随所にある。これまで2回の記事で議論してきたのは、それ以外の地(じ)の語りの部分についてだった。しかし、この地の部分でも、その語りには、まるで登場人物に感化されたかのように、彼らの言語が入り交じっている。

例えば、「都心では様々な未知の興奮材料が絶えず供給されまくっていることは、日々のあらゆるマスメディアが報じており、それを知らんぷりしていられるほどの長閑(のどか)さなど彼らは持ち合わせていなかった」(上p.67)。また、「執拗に『バーン!』と言い続ける少年の目付きは、一人ぐらいは殺(や)ってそうな雰囲気を漂わせており、かなりのやばさを感じとらせた」(上p.204)、「隈元光博は、ショベル・ローダーの側面に手を着かせて屈むような体勢で彩香を立たせて、背後から彼女の尻を掴み、マンコにチンコを挿入してゆっくりと腰を前後に動かした」(上p.342)といった具合だ。

さらには、語り手の言語だけでなく、発想までが登場人物と同じになる箇所もある。一番顕著なのは次のくだりだろう。「強い欲求と執念が、彼の脳裏に一つの勇ましき妄想を生み出していた--笠谷保宏はすなわち、ロボット戦隊フィスト・ファックなのだった」(上p.74)。フィスト・ファックへの固執を子ども向けTV番組のタイトルになぞらえて表現するという、笠谷本人なら思いつきそうな駄洒落を語り手自らが披露している。また、次のくだりは、語り手が登場人物たちと同じような思考の持ち主ではないかと疑わせる。「ある程度は裏社会での経験を積んだ身でありながら、三沢次郎は、自らの発言を活かす機会を悉(ことごと)く見誤っていたのだ。そんな男だから、一攫千金の好機もみすみす取り逃がしてしまうというわけだ」(下p.142)。

超越的地位から身体性を欠いた言葉で物語を語る語り手が、時折、このように登場人物たちの身体を我が身に纏おうとするのだ。一体、この語り手は何者なのか--そういえば、語り手の正体は、『インディヴィジュアル・プロジェクション』では重要なポイントであった。

実は、語り手の素性を考える上で気になる箇所が小説の始めの方に一箇所だけある。序章にあたる「田宮家の歴史」の中で、「・・・フィルが言うには、上空から見下ろすとまるでそこだけが空洞になっているかのような状態だという話だった。フィルというのは、駐留基地にて田宮仁が特に親しくしていたアメリカ人兵士の一人だ」(上p.15)というくだりがある。

単にフィルが語った内容を読者に伝えることが目的であれば、このような書き方をする必要はない。フィルを読者に紹介する意図があるのかとも思い、名前を記憶に止めながら読み進めると、なんとフィル二度と登場しない。であれば、ここでは語り手と田宮仁との関係が仄めかされていると考えるのが普通だろう。しかし、語り手は最後まで正体を現さない。

なぜフィルはファーストネームで語られるのか? この小説の文体の特徴の一つに、主語が繰り返しフルネームで登場するという点が挙げられるくらいなのに。センテンスごとに「笠谷保宏は・・・」とフルネームを繰り返すような書き方は、従来の日本文学の感覚ではない。なるべくそうした繰り返しは避けるのが普通だ。

あるいは、語り手は全知全能の存在ではなく、物語の時点よりもずっと後になって、自分が伝聞した「神町サーガ」を語り直している存在なのかも知れない(新聞配達人・星谷影生の末裔?)。この部分がサーガ的様相を文章に与えているということは出来るだろう。しかし、フィルについては田宮仁の証言を情報源とするしかなかったのに、他の諸々のことについては、各登場人物の心の奥底までそれこそ神の如く知り尽くしているというのも奇妙である。

また、論理的には語り手が登場人物の誰か--たとえば、最後に登場する「阿部和重」であることも可能だろう。彼が知り得ないところは、彼がねつ造したフィクションだと見なせばいいのだ。しかし、そうした解釈は、この小説に対して何ら有効な視点をもたらさない。『シンセミア』は、『インディヴィジュアル・プロジェクション』とは同じレベルで捉えられるべき小説ではないのだ。

『シンセミア』の語り手の素性は、小説世界内にではなく、むしろ外に求められるべきではないか。

読者は、おそらく登場人物の誰にも共感できないだろう(エキサイトブックス「阿部和重ロングインタビュー」のインタビュアーも阿部を前にそう告白している)。しかし、登場人物たちの欲望になら、身を沿わせることができるようになる。前に、この小説の読書体験は、「陰惨な出来事が次々とマニュアル的な文体で没価値的な情報として垂れ流されている--そういう事態に自分から関与して、その退屈さに耐えつつ自身を慣らしていく」体験であると書いた。慣らしたのちに、あるいは慣らす過程でやってくるのは、登場人物の人格は度外視しつつ、彼らの欲望への局面的な共鳴である。早い話が、この小説をエログロ趣味の娯楽として読むということだ。

陰惨な出来事の連鎖を情報として没価値的に受信しつつ、登場人物たちの欲望の発動に局面的に身を沿わせる--そのような読者のスタンスのあり方を、読者に対して自ら規範となって示しているのが、語り手なのではないか。つまり、語り手は著者によって提示された「読者モデル」であるというわけだ。

これが小説に込められた阿部の悪意でなくてなんであろう。小説を読み終えた者は、阿部の「これがお前だ」という「読者モデル」の提示を完全には退けられないだろう。なんにせよ、その者は、あの長大な物語を最後まで読み終えているからだ。「最初は嫌々でも、最後まで付き合ったんだから、お前だって、少しは楽しんだんだろう?」というわけだ(まるで神町青年団のメンバーが言いそうなセリフではないか)。そして、哀れな読者には、この「読者モデル」が『シンセミア』にだけでなく、マスコミを通じて日々受け取っている「陰惨な出来事の連鎖」に対しても適応できるのではないか、という問いが待っている。

実際、マスコミの供給するニュースに対して、暗い欲望を暴発させる者たちは確実に存在しているのだ。例えば、イラクで人質になった3人に匿名の攻撃を仕掛けるような人々のことだ。彼らはなんのためにそのような行為に及ぶのか。署名入りで言論を掲げるのならともかく、彼らの目的は社会正義ではありえず、自身のうっぷんを晴らすはけ口を求めてやっているとしか思えない。こうした行為に及ぶのは突出した人々だとしても、彼らの裾野には、マスコミの供給するニュースを消費しながら、その中に自らの欲望を重ね合わせることができるような素材をたえず探しているような人々が無数に存在しているのではないか。そして、そのことを知っていて、意図的にエサを与えようとする人々がいて、マスコミはそれがなんであれ、商品価値の高いものを売る。マスコミに限らず、Webメディアに氾濫する言説も同じだろう。それがどんな出来事であれ、マスコミと人々は、それを消費の対象として扱い、すぐに忘れ去る。

保坂和志は「小説とは本質的に『読む時間』のことだ」と言っているが、『シンセミア』は物語の内容よりも、むしろ読む時間を通してこそ、上に述べたような状況に対する批判を提出しているのだと思う。『シンセミア』は、おそらくその版元がどこであるかということまで含めて、それ自体が批判対象のカリカチュアとなるような形で提示された全方位で悪意に満ちたオブジェなのだ。

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『シンセミア』(2)--枠組みと読書体験

前の記事の続き。
『シンセミア』では、単語は辞書から取り出された履歴をもたない記号のように無表情であり、言い回しは語り手自身によって使い込まれたものというよりクリシェのリストから意識的に選ばれたかのようだ。だから、読者は語りから語り手の生きた存在を察知することができなくなる。まるで、マニュアルでお目にかかるたぐいの文章にも似た手応えのなさだ。言葉から語り手の身体性が消失しているのだ。

小説では、田宮家の三代目が上京した際に、渋谷の文化村通りをトラックが暴走して、多数の礫死体が道路に散乱する事件に遭遇する。彼にはこのすざまじい暴力の光景がトラウマとなって後々まで尾を引いてしまうのだが、実際にそんな場面に遭遇したら、誰でもPTSDを発症することだろう。ところが、このくだりを読んでいて、確かに記述されている内容は阿鼻地獄であろうという理解は得るのだが、ちょうど「阿鼻地獄」という言葉が今日多くの人に特になんの具体的イメージも呼び起こさないように、その場面の陰惨さが胸に迫ってくるというようなことにはならなかった。語り手の言葉に、私の身体的に反応するような共感性が欠落しているからだろう。それは感情と結びつかない単なる情報に留まっている。

この点で、阿部の文体はブレヒトの異化効果にも似た作用をもっている。けれども、ブレヒトがそれによって観客に劇内容に対する批判的な見方を促したのに対して、阿部の文体は、内容に対する無関心へと誘う。

それにしても、この小説では、次にどんな酷いことが起ころうと無感動に読めてしまう。次の一行で神町の町民が全員死ぬような事態が発生しても、「ああそうなの」という感じ。そして実際、酷いことばかりが起こって、それを淡々と読み続けるという体験が続くのである。しかも、実世界で生きていく上で必要なニュース報道をマスメディアから受け取る行為とは違って、小説を読む行為は基本的に不必要であり、いつ放棄しても構わないことを自分が好きでやっているのだから、始末が悪い。

陰惨な出来事が次々とマニュアル的な文体で没価値的な情報として垂れ流されている--そういう事態に自分から関与して、その退屈さに耐えつつ自身を慣らしていく。『シンセミア』の読書体験とは、そういうものであり、これがこの小説の書かれた意味なのだと思った。この体験の後味の悪さと、小説が提示する「日本の戦後史の縮図」という枠組みを重ね合わせて考えるべきなのかもしれない。すなわち、読書体験がそのまま私たちの現在の隠喩だという風に。ただし、枠組みと読書体験の間には論理的な関係は存在しないのであり、それを結びつける判断は読者自身が行うことだ。

ところで、これまで、小説の文章について、語り手の身体性を欠いたマニュアル的文体と評してきたが、それは大ざっぱな評で、より詳しく見ていくと、そうとは言い切れない部分がある。そこには阿部がこの小説に込めた読者への悪意が滲んでいるようで、ますます気持ち悪いのだ。その辺が、この小説が「シンセミア」(種なし大麻のこと。効果の強いマリファナを意味する)と呼ばれる理由でもあるのだろう。

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『シンセミア』の気持ち悪さ(1)

2週間前に書いた記事で、阿部和重の小説『シンセミア』について書いたけれど、あの小説の気持ち悪い読後感はいまだに続いている。あの記事では、鐘下辰男の芝居[ 現代能楽集II 求塚 ] との対比で、「日本の戦後史の縮図」という取り上げ方をしたのだが、おそらくあの小説の重要性はそういうところにはないのだろう。少なくとも自分にとっては、このボディーブローのように効いてくる気持ち悪さにこそが、『シンセミア』体験の意味だと思うようになった。

あの小説の読書体験というものは、「日本の戦後史の縮図」というような予め掲げられた枠組みを頭の隅に置きながらも、その大部分の時間は、倫理観の欠片もないような青年団のメンバーたちが盗撮行為をしてはその映像を鑑賞しあって愉しんだり、リーダー格が女教師を恐喝してポルノ映画まがいのドロドロの性的関係に追い込んだり、主婦がコカインに溺れたり、ロリコン警官が女子小学生に目を付けていびつな妄想を膨らませたり、といったウンザリするようなエピソードを果てしなく読んでいく体験である。だから、途中で投げ出したくなったことは一度や二度ではないが、それでも、「ただこんな話を読ませるために書かれた小説ではないはずだ」という判断を信じて、最後まで読み続けたのだった。冒頭で「日本の戦後史の縮図」的な枠組みが与えられていなかったら、おそらく挫けてしまっただろう。

しかし、あの人を食ったような最後のオチ(そういえば『インディヴィジュアル・プロジェクション』もそうだった!)まで読み終わってみて、この小説が、ここまで長くなければいけない理由は何なのか、どうしてあのようなエピソードを延々と読まなければいけなかったのか--そういう疑問というか、淀みのような思いがあとに残る。そして、その意味をいま、延々と尾を引く気持ち悪さとして私は味わっているのだと思う。

気持ち悪さの最大の理由は、たぶん文体(あるいは語り手の素性というべきか)にある。上に紹介したような内容がどのような文体で書かれているのか。適切な引用じゃないかも知れないが、極端な例として挙げるならこんな文章だ。

中でもとりわけ極端な驚駭(きょうがい)を示したのは、松尾園子だった--生気を欠いた園子の面立ちは、唯一無二の崇拝の対象とでも出会(でくわ)したみたいに畏懼(いく)の相貌へと変わってゆき、さらには全身全霊を捧げる心算(しんざん)でいるかのごとく、赤く輝く鉱石の存する上方に両手を高々と差し出して、彼女は嗚咽を漏らし始めたのだ。(下p.256)

やたら硬い熟語が多いことに気づくと思う。多いだけではなく、これらの「驚駭」だの「畏懼」だの「相貌」だのといった言葉がもっているイメージ(辞書的意味ではなくニュアンスのようなもの)が、語られている内容に全然そぐわないのだ。

言葉のイメージは、「相貌」なら「相貌」という言葉に、これまでにどんな文章の中で出会ってきたかで形成されるのだろうが、阿部の小説は、少なくとも私にとって、これまで「相貌」という言葉に出会ってきた文章群とはまったく異質のものだ。ここでは、言葉が、その言葉の使われ方の履歴に対する配慮なしに、単に辞書に書かれた意味程度のことだけを指示する記号として取り扱われている。そのような言葉の使われ方が私にとってまず気持ち悪かった。

でも、この小説を読んでそんな風に思うのは、私が知らないだけで、官能小説なんかではこんなのはすでに当たり前なのかも知れない。それに、この「言葉の履歴の切断」の問題は程度問題で、私自身がものを書いているときにもある程度当てはまっているのだろう。ただ、『シンセミア』ではそれが意図的に極端に行われているのだ。読者が、その切断の不気味さに気づかずにはいられないように。

いや、不気味さが意図されているのかどうかははなはだ怪しい。むしろ、「これがいまや当たり前だ」という感覚が阿部に言葉に対するこのような態度を選ばせているのかもしれない。というのは、彼がこの小説を書いている頃に東浩紀と行った対談(東浩紀『不過視なものの世界』に収録)で話題にしている映画やアニメの世界で起こっている現象(東はのちにそれを物語消費からデータベース消費へのシフトと表現する)が、言葉に対する阿部のこのような態度とパラレルであるように見えるからだ。そうだとすれば、すでにこのような感覚は世界的に蔓延しつつあるのであり、それを不気味に感じるのは、少し古い感覚の持ち主なのかもしれない・・・

辞書とはすなわちデータベースであり、言葉が辞書と文法で成り立っているのなら、この事態は言葉の本質的に根差す姿であろう。だが、人は言葉をそのようには学んでこなかったし、使ってもこなかった・・・・・・ここには若者の言語感覚やコミュニケーションのことなど、色々な問題が関連してくるように思うけれど、今はこの問題はおくことにして、それよりも『シンセミア』の気持ち悪さについて、もう少し続けて書いてみたい。

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